お金持ちとラザロ

「お金持ちとラザロ」ルカの福音書16章19節~31節

聖書は財産やお金があることを必ずしも悪とは決めつけていません。それよりも、心がお金に支配されることや、神様以上にお金や財産に頼ることを戒めています。それは、必ずしも財産やお金が人を幸せにするものではないからです。かえって財産が家族や夫婦を不幸にすることもあります。箴言17章1節「一切れのかわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。一切れのかわいたパンであっても家族で分け合う家庭と豪華な食事が用意されても家族が争っているなら、どちらが幸いな家庭と言えるでしょうか。

ルカの福音書16節から21節は、イエス様が話された有名なたとえ話です。このたとえ話は、貪欲に注意するように戒められたたとえ話です。16節「ある金持ちの畑が豊作であった。」とあります。豊作になること自体は悪ではありませんが、この後に彼が考えたことに問題がありました。彼は、豊作で貯えるところについて考え、大きな倉に建て替えることを決めました。ここも問題ではありません。問題は次のことばです。19節「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」彼の考えは、物がたくさんあれば、財産がたくさんあれば、たましいが守られ、いつまでも楽しい生活ができると考えたことです。つまり、たくさんの財産が有れば、たましいを養うことができると考えた点です。しかし、実際は、たましいは財産で養われるものではなく、神によって養われるものです。その点が彼の欠けた点でした。神様は彼に言われました。20節「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」21節「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」彼は自分の得た財産を自分の楽しみのためだけに使おうと考えました。神が彼に求められたのは、彼の得た収穫を隣人と分かち合うことと、神への感謝で神様にお返しすることでした。しかし、彼は、自分のためにたくわえ、自分の楽しみのために財産を用いようとした時に、神によってたましいが取り去られたのです。

ルカの福音書16章にも、イエス様の有名なたとえ話「お金持ちとラザロ」のたとえ話があります。このたとえ話はお金の好きなパリサイ人たちに語られたたとえ話です。また、どういう人が天の御国に迎えられるかをたとえたお話です。19節「ある金持ちがいた。いつも紫のころもや細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」とあります。「紫の衣」については以前、紫布の商人ルデヤの所でお話しました。当時、紫布は高価で、王様や貴族、商人でも大金持ちしか購入することができなかったというお話をしました。「細布」というのはエジプト亜麻で織られた柔らかな特別な下着を意味しています。どちらも高級な衣類で特別なお金持ちしか着ることができない品物です。そして、ラザロとはどういう人でしょうか。20節21節「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」とあります。これはたとえ話ですから、金持ちと対比するためにそのように悲惨な姿で表現されています。ここで大事なことは、この金持ちの名前が記されずに、貧しいラザロの名前だけが表されている点です。ラザロとは「神は助け」という意味です。金持ちは大きな屋敷に住み、人々の前にお金持ちとして名前が知れ渡っていたでしょうが、神様にはその名前が憶えられず、神様は貧しいラザロの名前だけを憶えられたという意味です。

次に、二人の死後についての違いについて語られています。22節「さて、この貧しい人は死んで御使いたちによってアブラハムのふところに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。」とあります。貧しいラザロは御使いたちによってアブラハムのふところにはこばれました。「アブラハムのふところ」とは、象徴的な表現で、天国を指すものと考えられます。ではお金持ちはどこへ運ばれたでしょうか。23節「そのお金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」とあります。「ハデス」とは、象徴的に地獄を表しています。わかりやすくこの場面を説明すれば、お金持ちは地獄に運ばれ苦しみ、はるかかなた、アブラハムのふところにラザロを見たということです。24節「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。わたしをあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」。25節「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえるのです。』」死によって、二人の立場は逆転してしまいました。貧しいラザロは天国に迎えられ、金持ちは地獄で苦しむ。ルカの福音書16章の15節でイエス様はお金の好きなパリサイ人にこのように言っています。15節「あなたがたは、人前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前では憎まれ、きらわれます。」では、どういう人が天国に迎え入れられると、このたとえ話は教えているのでしょうか。このお金持ちは、あまりの苦しみのゆえに、自分の兄弟五人もこの地獄に来ることがないように、ラザロを父の家に送って下さいと懇願しました。それに対してアブラハムはこのように答えています。29節「彼らには、モーセと預言者があります。その言うべきことを聞くべきです。」ここで言われた「モーセと預言者」とは旧約聖書のことを指しています。この時はまだ新約聖書はできていません。それゆえ、イエス様が言わんとしたことは、天の御国に入るためには、財産を貯えることや良い行いをすることではなく、神様のことばに従って生きるならばだれでも天の御国に迎え入れられるということです。お金で買えないものがいくつかあります。その第一のものがたましいの救いです。お金をいくら支払っても天国に入ることはできません。それゆえ、イエス・キリストは神の子であるのに人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。私たちの救いは、ただ、神様がなされた御業を信じるだけです。そのために、聖書が与えられました。お金や財産は、この世では、好きなものを買い、好きなものを食べることができます。しかし、それでたましいを養えるものではありません。私たちはただ、神様に信頼することによって永遠のいのちを自分の物とし、天の御国に自分の住まいを築くことができるのです。