神に祈り神を礼拝する

「神に祈り神を礼拝する」創世記4章1節~8節

以前、イスラエルの民が神殿礼拝から会堂礼拝に移行した経緯についてお話しました。では、人はいつから神様を礼拝するようになったのでしょうか。初めに、創世記4章をお読みしました。この個所には礼拝と言うことばは出てきませんが、カインとアベルがそれぞれの働きから神様にささげ物を神様に持って来た行為は、明らかに礼拝と言うことができます。ここでカインとアベルが神様にささげ物を持ってきますが、この時、二人が突然、神様にささげ物を持って来たとは考えられません。父であるアダムの姿にならって、ささげ物を持って来たか、あるいは、父アダムに言われてささげ物を持って来たと考えられます。

カインは土を耕す者ですから、地の作物から神様にささげ物を持ってきました。アベルは羊を飼う者ですから、彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来たとあります。聖書はアベルについて、「羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」と記しています。そこには、「最上のものを選んだ」という、アベルの神様への感謝の気持ちが表されています。しかし、カインについては何も書かれてありません。カインは神様に感謝して、最上の作物を選ぶという感謝の気持ちがあったのでしょうか。結果、神様の目(心)は、「アベルとそのささげ物とに目をとめられた。」しかし、「カインとそのささげ物には目を留められませんでした。」このお話から、礼拝にとって一番大切な物が何であるか、神様が私たちに求められているのが何であるかがわかります。礼拝とは、私たちが神に感謝し喜んで神様の前に出ることです。しかし、私たちは、礼拝が習慣となり、形だけになってしまいやすい者です。もう一度、神様が私たちに与えてくださっているものが、いかにたくさんあり、私たちの生活に、神様の愛があふれていることを心に留めましょう。

新約聖書のローマ人への手紙12章で、パウロは礼拝についてこのように教えています。1節2節「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせたはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分をかえなさい。」神殿礼拝では動物や穀物をささげました。その元となるのは、アベルのささげ物です。神様はアベルがささげた羊の初子だけではなく、アベルが感謝をもって最上のものを選んで持って来た、そのアベルの心に目を留められたのです。パウロが言った「あなたがたのからだを」という意味は、「あなたの全てを」という意味です。「私たちの考え、価値観、願い」すべてを神様にささげるということです。そして、自分の考えや願いではなく、神様の御心に従って歩むということです。時として、それは、自分に都合の悪い道かもしれません。人々の歩む方向とは違う道かもしれません。また、人に非難される道かもしれません。しかし、礼拝とは、御ことばを通して、神の御心を知り、それに合わせた歩みをすることです。それが霊的な礼拝です。

では、人は何時から神に祈るようになったのでしょうか。創世記の4章26節「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき。人は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。少し前に戻って、カインはアベルに嫉妬しアベルを殺してしまいました。そして、カインはさらに神様に、より遠くに退けられてしまいました。それにより、アダムとエバは、カインとアベルという二人の息子を失いました。神様は二人を憐れみ、アベルの代わりにもう一人の子を与えました。それがセツです。そのセツの子孫から人々はまた、神に祈るようになったということです。

しかし、祈りとは、神様との交流(コミュニケーション)です。創世記の1章27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。「神のかたちとして創造し」とは、外見を神に似せてという意味ではなく、神に近い者として、また、神と対話できる者として創造された、という意味です。その目的は、神様の御こころに合わせて地上を管理させるためです。誰でも、対話のできない動物に、大切な物を管理させることはありません。大切であれば大切であるほど、信頼できるものに管理を任せます。神様はそういう存在として人を創造されたということです。それゆえ、人は誰でも神様に祈るものとして創造されたのです。最初の人アダムは、本当に神様と親しい間柄であり、神にとってアダムは信頼できる人物だったのです。しかし、その信頼を裏切ったのはアダムとエバでした。二人は罪を犯しエデンの園から追い出されてしまいました。また、カインはアベルを殺し、さらに、神様から遠く離れてしまいました。そして、神様と人との間に罪によって大きな壁ができてしまいました。しかし、神様はアダムとエバにセツを与え、セツの子孫からもう一度、神に祈る種族を与えてくださったのです。

神は私たち人間を神に祈る存在として創造してくださいました。しかし、人は神に罪を犯し、神との間に大きな壁を作ってしまいました。それゆえ、人は神様との交流が絶たれ、多くの人々は、祈っていても、誰に祈っているのかわからないで祈っています。それは、相手の住所を書かないで手紙を出すようなものです。宛先を書かずに手紙を出せば、自分の住所に戻って来るだけです。相手に届くことはありません。しかし、私たちクリスチャンは真の神を知り、その神が私たちを知り、父が子を愛するように愛して下さっていることを知っています。それは、イエス様を通して、神との人格的な交わりを回復したからです。礼拝は神様が人と親しく交わるために備えてくださったものです。私たちは、礼拝を通して、神様の御前に集い、賛美を通して神様に感謝のいけにえをささげます。そして、御ことばに耳を傾け、神様の御心が何であるかを受け取ります。それが霊的な礼拝です。また、礼拝だけではなく、私たちは、聖書を通して日々の生活の中で、神様と交わることができます。それをディボーションと呼びます。祈りは神様へ近づく道です。また、御ことばは神様からのメッセージです。私たちは神様からメッセージを受け自分に照らし合わせながら、自分自身の歩みを確認し、方向が間違っていることがわかれば修正して、正しい神様の御心に合った道に戻ることができるのです。祈りは、神様が私たちに与えてくださった特別な恵みです。神様は私たちが神様に信頼し、祈ることを期待しておられます。私たちはこの神様の信頼に応え、セツの子孫のように、神に祈る民となりたいと思います。