信仰による義

「信仰による義」創世記15章1節~6節

「信仰による義」と対極にあるのが「行いによる義」です。律法学者たちにとって、「行いによる義」とは、神様の戒めである律法を守ることでした。ユダヤ人たちは、自分たちの国が滅ぼされたのは、自分たちの先祖が神様の戒めである律法を守らなかったからだと理解しました。それゆえ、捕囚時代より、神様の戒めが編集され、律法の専門家として、律法学者が登場し、会堂において、神様の戒めを教えるようになりました。また、彼らは、神様の戒めを守るために、律法の学者たちのことば「口伝」をも編集し、人々に守るように教えました。しかし、時代が進むと共に、神の戒めと口伝との境が無くなり、律法学者たちは、どちらも神様の教えとして、人々に守るように強制しました。そのため、神様の戒めを守るために造られた「口伝(言い伝え)」が膨大な数に膨れ上がり、人々は、律法学者たちが教える律法に縛られ、よけいな重荷を背負わされ苦しめられていたのです。そんな状態の中に登場したのがイエス・キリストです。イエス様は正しい神様の教え(旧約聖書)が何であるかを民衆に教えました。そして、律法学者たちの教えを、人の教えを教えるだけだと批判しました。それゆえ、イエス様は、人が定めた戒めには従いませんでした。それを見た、律法学者たちは、イエス・キリストは神様の戒めを守らない者として、激しく攻撃し、イエス様を非難したのです。

教会が誕生し、ユダヤ人以外の信者が増えるに従って問題になったのが「割礼」の問題です。イエス様を信じてクリスチャンとなった初めの人々はユダヤ人です。彼らはユダヤ教の習慣に従って、生まれてから8日目に割礼を受けていました。それは、教会の指導者であるペテロやヤコブなども、また、後に割礼に反対するパウロでさえ割礼を受けていたでしょう。

ここで問題になるのは、ユダヤ人以外のクリスチャンです。彼らにはユダヤ教の習慣がありませんから、割礼を受けた者はいませんでした。そこで、ユダヤ人クリスチャンたちが、外国人である彼らに割礼を受けなければ救われないと言い出したのです。そのことが使徒の働き15章に取り上げられています。パウロは、この問題を解決するため、エルサレムの教会を訪れ、教会の指導者たちと議論し、救いと割礼との関係を分離させました。ユダヤ人がその習慣に従って割礼を受けることをパウロは否定しませんでした。しかし、救いと割礼とは関係ないことを明確にし、異邦人は割礼を受けなくても信仰によって救われることをエルサレムの指導者たちに認めさせたのです。パウロにとって、救いとは神様の御業であって、人間が努力して得られるものではありませんでした。しかし、初期の教会はユダヤ人がほとんどで、ユダヤ教の習慣が根強く残っていました。その一つが割礼の問題です。彼らは、イエス・キリストを神の子と信じる信仰プラス、ユダヤ教の教えを守ることによって救われると考えたのです。

では、パウロが考える「信仰による義」とはどのようなものでしょうか。パウロはこの信仰による義について説明するのに、旧約聖書のアブラハムの信仰を通して説明しています。創世記の15章の時、アブラハム夫妻にはまだ子どもが生まれていません。アブラハムはここで、自分の子がまだ与えられていないので、自分の財産はすべて、ダマスコのエリエゼルのものになるのでしょうかと、神様に問いかけました。当時、主人に子がいない場合、主人が信頼するしもべに財産を譲り、その代わり、その僕しもべが責任をもって、主人の最後まで面倒を見るという習わしがありました。エリエゼルはアブラハムが最も信頼できるしもべでした。しかし、神様は将来に不安を持つアブラハムにこのように言われました。創世記15章4節「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、神様はアブラハムを外に連れ出して言われました。5節「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに神様はアブラハムに言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」外に連れ出され、天を見上げたアブラハムの目に星はどれほどたくさん見えたことでしょう。6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラハムの現状は何も変わっていません。しかし、アブラハムは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われた神様の約束、また、約束をして下さった神様自身を信じたのです。そして、神様はその「アブラハムの信仰」を義と認めてくださったということです。

このことは、私たちの救いと同じことを表しています。私たちの救い、罪が赦され天の御国に私たちが入ることは、まだ、約束の状態です。しかし、私たちはそのことは必ず起こると信じています。アブラハムも同じです。天の星を見てすぐに子供が生まれたわけではありません。しかし、アブラハムは、星を見て、神にはそれができると信じたのです。見ずに信じることが信仰です。この後、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、イサクが生れました。神様はアブラハムとの約束を忠実に守られたのです。それと同じように、神様は私たちとの約束も守るお方です。その、神様が私たちに与えてくださったのが、イエス様の十字架の死と復活。また、それを伝える聖書です。私たちは聖書を通して神様の約束を信じる者です。

多くの人々は、信仰による救いを信じることは出来ません。何もしないで、また、悪いことをしても、イエス・キリストを信じるだけで罪が赦され、天の御国に入るなど、普通の人は信じることは出来ません。人は努力の結果得る物に価値を見出しますが、何もしないで得る物に価値を見出すことは出来ません。それゆえ、人は努力して神様に認められようとします。しかし、それは「自己義」であり、「自己満足」でしかありません。「自己義」の主体は人間にあります。それゆえ「自己義」は自分をほめ、高慢になります。しかし、「信仰による義」の主体は神様にあります。私たちは、神様の恵みによって救われることによって神様自体を賛美し、神様を褒めたたえるのです。神様が私たちに与えてくださった救いには、神の子イエス様のいのちが犠牲とされました。私たちは何もしないで、ただで、救いをいただくことができますが、その為に、イエス様はご自分のいのちを犠牲とされました。私たちを救うために、神の子のいのちが犠牲にされたのです。これより高価な犠牲があるでしょうか。私たちが救われるために、これほど大きな犠牲が支払われました。私たちは、この尊い神の子の犠牲のゆえに、神様に感謝し、イエス様の御名が褒めたたえられることを喜ぶのです。