イスラエルの王ダビデ・神に選ばれた者

「イスラエルの王ダビデ・神に選ばれた者」Ⅰサムエル記16章1節~13節

今日から五回に分けて、イスラエルの王ダビデの人生の光と闇の部分を学びます。

1.イスラエルの国で王様が選ばれた理由。

イスラエルの国の一番初めの王はサウル王です。イスラエルの国はサウル王が誕生するまで、士師と呼ばれる神様によって選ばれたリーダーが国を治めていました。最後の士師がサムエルです。しかし、サムエルは年を取り、彼の子どもたちは、サムエルのように神様に仕えず、不正を行っていました。そこで、イスラエルの民は、他の外国のように、王を求め、王によって国が治められることをサムエルに求めたのです。この民の要求は。サムエルという指導者を退けただけではなく、神様を退ける行為でした。それゆえ、サムエルは民の意見に賛成ではありませんでした。しかし、神様がサムエルに民の要求に応えるように言われたので、サムエルは仕方なく、民の声に応えて王様を立てることを承認したのです。

2.イスラエルの一番目の王様サウル。

神様は、イスラエルの一番目の王様として、ベニヤミン族のサウルを選びました。ベニヤミン族はイスラエルの12部族の中でも小さい部族です。また、サウルの家はそのベニヤミン族の中でも大きい家柄ではありませんでした。それを考えると、サウルは王としてふさわしくない家系から王に選ばれたことになります。それゆえ、サウル自身、王に選ばれたことに驚き、どれほど喜んだことでしょう。聖書はサウルの容姿をこのように紹介しています。Ⅰサムエル記9章2節「彼は美しい若い男で、イスラエルの人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」とあります。サウルは外見も美しく、体格も立派で、外見は王にふさわしい風貌の人物でした。サウルは初めは神様に選ばれたことを喜び、イスラエルの国のために積極的に戦いに出かけて勝利を収めていました。しかし、次第に高慢になり、神様の命令を退け、自分の思いや考えを優先するようになってしまいました。それゆえ、サウル王は神様に退けられてしまいました。サムエルは自分が立てた王サウルが神様に退けられたことを知り、サウルのことで悲しんだとあります。また、主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれたとあります。

3.神に選ばれた少年ダビデ。

サウル王を退けられた神様は、預言者サムエルにベツレヘムに住むエッサイの所に行くように命じられました。神様は次の王様としてエッサイの息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたからだと言われたのです。サムエルはエッサイの家に行き、神様に生贄をささげるために、彼の息子たちを集めるように命じました。その時、エッサイの息子7人が集められました。サムエルはエリアブを見て、確かに、「主の前で油そそがれる者だ。」と思ったとあります。7節「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」次にエッサイはアビナダブを呼びましたが、サムエルはこの者でもないと言いました。次にシャマをサムエルの前に連れてきましたが、サムエルはこの者でもないと言いました。サムエルはエッサイに「子どもたちはこれで全部ですか」と尋ねました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」とこたえました。サムエルは「人をやって、その子を連れてきなさい。その子がここに来るまで、私たちは座につかないから。」とエッサイに言いました。エッサイはダビデが幼く、まだ、公式の場に参加させるにはふさわしくないと考えたのでしょう。エッサイがダビデを連れてきました。11節「その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。」とあります。主は、「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と言われたのです。結局、神様が選ばれたのは、体格の良い兄たちではなく、まだ、人前に出すのもはばかるような、幼いダビデでした。しかし、初めに神様が言われたように、神様はうわべを見られる方ではありませんでした。主は心を見ると言われたように、神様はダビデの体格ではなく、心を見てダビデを次の王として選ばれたのです。

4.幼いダビデがイスラエルの王として選ばれた理由。

神様がサウルの次に王に選ばれたのは、まだ幼い少年のダビデでした。サウル王が神様に選ばれた時、彼はイスラエルの中でだれよりも美しく、体格もよかったと記されています。それに比べ、ダビデはどうだったでしょうか。ダビデは兄弟たちが呼ばれた公式での席にも呼ばれないほど、幼い者でした。しかし、神様はダビデの心が純真でだれよりも神様を愛していることを見ておられました。神様にとって外見がどうの、体格がどうのと言うことは関係ありませんでした。唯一、神様は心の中を調べ、心が神様と一つになっているかを見られるのです。コリント人への第一の手紙1章27節でパウロはこのように教えています。27節「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」サウル王は、体格も立派で自分を誇る者になってしまいました。自分の弱さを知るということは、神様に100%頼るということです。力のある者は自分の力に頼り神様に頼ることができません。知恵についても同じことが言えます。自分を知恵者と思う者は自分の知恵に頼り、神様に頼ることができません。パウロは自分の経験を通して、このように教えています。コリント人への第二の手紙12章ここでパウロは、自分の内にあるとげ(痛み)について、取り除いてくださいと神様に三度もお祈りしました。しかし、神様の答えは、パウロの願う答えとは違うものでした。9節10節「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときに私は強いからです。」普通、世間では、強くなることを求め弱さを否定します。しかし、パウロが教えるキリスト教の真理はその逆で、自分の弱さを認めることが強さの源になるということです。なぜなら、強い者は自分の強さに頼り神様はその人を助けることができません。私たちが自分の弱さを認め、神様に助けを求める時、始めて神様は私たちを助けてくださるからです。サウルは自分の力を誇り、神様から離れてしまいました。ダビデは罪を犯しましたが、それでも、悔い改めて神様から離れませんでした。この心の中が、サウルとダビデを分けた大きな点でした。ダビデの子ソロモンは、兄弟の順番からすれば王になれる順番ではありませんでした。長男アムノンは、腹違いの妹タマルを犯してしまいました。タマルの兄アブシャロムは、アムノンを憎み彼を殺して、逃亡してしまいました。その後、ダビデに赦されて国に帰りますが、今度は、自分の力で王になろうとして、ダビデを殺そうとしました。ダビデと戦ったアブシャロムは戦争に負けて殺されてしまいました。ダビデとバテシェバとの姦淫の子は病気で死んでしまいました。ソロモンはその後に、バテシェバとの間に生まれた子供です。ダビデにとってバテシェバとの間に生まれたソロモンは自分の罪が赦された証の子です。ダビデはバテシェバに対してソロモンを自分の後継者として立てることを約束していました。しかし、ソロモンの兄アドニヤは自分の力で王になろうとしましたが、ダビデの部下たちによってこのことがダビデ王に知らされ、ダビデ王よりソロモンが正式に王に任命されたのです。そのため、ソロモンは初め、神様の前に謙遜な者でした。しかし、次第に権力を握るとソロモンも神様から離れ、自分の知恵と力で国を治めるようになったのです。それゆえ、イスラエルの国はソロモンの死後、北イスラエルと南ユダとに分裂してしまいました。

ある人たちは、苦しみや問題がある時は、神様に助けを求めますが、問題が解決すると神様から離れてしまいます。神様の助けを必要としないからです。それは、信仰ではなく、神様を利用する行為です。信仰とは、問題があるないにかかわらず、神を神として信じ仰ぐことです。私たちは、どうでしょうか。自分の力、知恵に頼る者でしょうか。それとも、神を利用する者でしょうか。神は目には見えませんが、私たちを愛して下さっている神様です。私たちは、神の愛を信じる者でしょうか。それとも、神の力のみに頼るものでしょうか。今日、私たちは、自分自身に問いかけてみましょう。