信仰によるダビデの勝利

「信仰によるダビデの勝利」サムエル記Ⅰ 17章31節~37節

ダビデとゴリヤテの戦いは聖書の中でも有名なお話です。日曜学校に来る子どもたちにも人気のお話です。しかし、注意して聖書を読まないと、このお話は、ただのダビデの手柄話で終わってしまいます。神様はこのダビデとゴリヤテの戦いを通して何を私たちに教えようとされているのでしょうか。ここに登場するゴリヤテは戦士で、3メートル近い大男です。イスラエルの戦士たちは、ゴリヤテの大きさにおののき、誰もゴリヤテと戦う者がいませんでした。そこに居合わせたのが少年ダビデでした。ダビデはまだ戦場で戦ったことはありませんでした。また、鎧を付けて歩くことや、剣の使い方も知りませんでした。ところが、ゴリヤテを恐れる大人の戦士たちを見て、ダビデは、自分がゴリヤテと戦うと申し出たのです。それを聞いて、サウル王はダビデにあきらめるように言いましたが、ダビデはサウル王にこのように言いました。34節35節「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。」37節「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」ダビデは、ゴリヤテと槍や剣で戦うつもりではありませんでした。彼の武器は信仰で、自分一人でゴリヤテと戦うのではなく、主が助けてくださり、主がゴリヤテを倒してくださると信じているのです。これがダビデの信仰です。実際にダビデは、杖と石投げという武器で戦いに臨みました。ゴリヤテは少年ダビデを見て笑いましたが、ダビデがゴリヤテに投げた石がゴリヤテの額にあたり、ゴリヤテが倒れたすきに、彼に馬乗りになり、ゴリヤテの剣で、彼の首を切り落としたのです。

ある有名な牧師が、あなた方の神は小さすぎるという説教をしました。神様は無限の大きさを持ち、全能なる神です。しかし、私たちの信仰が小さいゆえに、神様の大きさを小さくし、神様の力を無限ではなく、有限で小さなものにしているというメッセージでした。確かに、神様は無限なお方ですが、私たちがその大きさを理解できないがために神様の力を小さく感じ、いくら神様でもこんなことは出来ないだろうと神様の力を制限してしまうことがあります。ゴリヤテを見た大人の戦士たちは、ゴリヤテの大きさに驚き、信仰を失い、戦意を失ってしました。しかし、ダビデは違いました。同じようにゴリヤテを見ましたが、ダビデにとって、ゴリヤテよりも神様の方が力強いと信じたのです。以前、ヨシュア記の学びで、カナンの地を偵察した12人の偵察隊についてお話しました。彼らは40日かけて、カナンの地を偵察し帰ってきましたが、そのうちの10人はカナン人を見て恐れ、エジプトに帰ろうと言い出ました。しかし、ヨシュアとカレブは、神様が共におられるので必ず勝利することができると確信し前に進むべきだと叫びました。12人は同じ状況を見たのに、10人は恐れましたが、ヨシュアとカレブはカナン人を恐れませんでした。なぜ、彼らはカナン人を恐れなかったのでしょうか。それは、彼らが信仰を持って、カナン人を見たからです。信仰とは、天国に行くことだけが恵みではありません。私たちが神を信じる時、神は共にいてくださると約束して下さいました。

ここに登場するゴリヤテは、現在の私たちの前に立ちはだかる、権威や力、苦しみや試練を現しています。私たちはこの世の生活の中で、自分の力では耐えられない、苦しみや悲しみに遭うことがあります。そんな時、私たちはどうするでしょうか。ゴリヤテの前に恐れる大人の戦士たちのように、ただ恐れて、その苦しみが無くなるのを待つだけでしょうか。それとも、ダビデのように、信仰を働かせて、神と共に勇敢に立ち向かう者でしょうか。

信仰にも二種類の信仰があります。「生きた信仰と眠った信仰」です。以前、私が中学生のころ、友だちの間でギターが流行りました。私も友達のようにギターが弾きたくて、お年玉で、2万円のギターを買いました。私は喜んで練習しましたが、姉に言われた一言「あんた、何を弾いているの、うるさい。」でギターを押し入れに入れて、二度とギターを弾くことがありませんでした。ギターは持ってはいましたが、弾くことがなかったので、持っていても意味のないものになってしまいました。信仰も、同じように、持っているだけ(信じているだけ)では、たくさんの恵みを受けることができません。信仰は、働かせることによって、私たちは多くの恵みを受けることができるのです。ヘブル人への手紙11章6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神に求める者は報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあります。神様の存在を信じるだけではなく、神様が報いてくださる方、祈りを聞いてくださる方だと信じることが大切なことです。

以前、兄弟団の中目黒教会に行ったことがあります。駅から歩いて5分程の距離で、立派な建物でした。その時、主任牧師の先生にどれぐらいの費用がかかったか聞いてみました。すると、約3億円程かかったと言われました。私はその先生のお話を聞いてこの先生の信仰の大きさに驚きました。私の信仰の大きさでは、1億円までは建てる自信はありますが、3億円と聞くと躊躇してしまう金額です。そのように、神様はその人の信仰の大きさに比例して働かれます。私たちはどのような信仰を持ち、神様にどれほど期待しているでしょうか。ダビデは、ゴリヤテを見てもひるみませんでした、神様の大きさ、神の力を知っていたからです。先ほど、ある先生が、あなたの神は小さすぎると言った話をしました。私たちが信じている神はどれほど大きな神でしょうか。私たちが持っている信仰の大きさによって、神様の働きが変わるということです。神様に期待しないで祈らなければ、何も起こりません。しかし、神様に期待して祈るなら、神様は私たちの祈りに応えてくださるお方です。マタイの福音書7章でイエス様は言われました。7節8節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさいそうすれば開かれます。」なぜ、私たちが、求め続け、捜し続け、たたき続けるなら、与えられ、見つけ出し、開かれるのでしょうか。11節「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。」とあります。私たちは、イエス様を通して、父なる神様と和解して、神の子とされました。それゆえ、天の父は、私たちに必要な物は何でも与えてくださるのです。