人の罪を赦される神

「人の罪を赦される神」サムエル記第二12章1節~15節

ダビデの光の部分を三回に分けて学んできました。(1)神の選びについて。(2)ダビデの信仰について。(3)ダビデの忍耐について学びました。今日から、二回に分けてダビデの闇の部分について学びます。1回目はダビデの罪について。

1、ダビデの罪と神の赦し。

ダビデは神様に信頼される王として、イスラエルの国を治め、イスラエルの国もその時代に大きく繁栄しました。国が安定すると、王であるダビデの心の中にゆるみが出始めました。ある時、ダビデは自分の部下を戦場に送り、彼自身はエルサレムの城に残りました。ある夕暮れ、ダビデが王宮の屋上を歩いている時、一人の女性が水浴びをしているのを見てしまいました。その女性は非常に美しく、ダビデは、人をやって彼女について調べさせました。彼女はヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバであることがわかりました。ダビデは彼女を王宮に召し入れ、彼女と一夜を共にしてしまいました。その後、彼女がダビデによって身ごもったことを告げました。ダビデはこの姦淫の罪を隠すために、バテ・シェバの夫ウリヤを戦場から呼び戻しました。しかし、ウリヤは自分の家に帰ることをしませんでした。そこで、困ったダビデは、戦場の将軍ヨアブにウリヤを激戦地に送り戦死させるように命じました。ヨアブはダビデの命令に従い、ウリヤを激戦地に遣わし戦死させました。その後、ダビデは、未亡人となったバテ・シェバを自分の妻に迎え入れたのです。

他国の王様であるならよくあることです。王様にとって、部下や国民は自分の所有物に等しい存在です。自分の欲しい物を部下から奪うことは普通のことでした。ましてや、自分の部下の美しい妻を奪い、自分の妻にすることは、どこの国でもよくあることです。しかし、イスラエルの国ではそれは赦されませんでした。なぜなら、イスラエルの国は神様の国であり。王と言えでも神様の下に位置する存在です。王であっても、神様の戒めに従わないなら神様から退けられてしまいます。この出来事を受けて、神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わしました。ナタンは巧みにたとえ話を通して、ダビデの犯した姦淫の罪について指摘しました。ダビデはナタンのことばを聞くと、自分の罪を認め悔い改めました。普通、王様の権威からすれば、預言者ナタンを殺すこともできました。しかし、ダビデは自分の罪を認めて悔い改めたのです。ダビデが自分の近くにナタンのような預言者を置いておいたことは特別なことです。権威者は普通、自分に良いことを言う者だけを置きたがるものです。また、ナタンも自分が殺されるかもしれないのに、勇気をもってダビデ王の罪を指摘しました。ここに、ナタンの勇気とダビデ王に対する信頼を見ます。そのように、自分の罪や間違いを指摘してくれる友人を持つことは大切なことです。ダビデとバテ・シェバとの姦淫の子は産まれましたが、じきに病気になり死んでしまいました。ダビデはその子のために断食して祈りましたが、その祈りは聞かれませんでした。しかし、悔い改めたダビデに神様はバテ・シェバとの間にもう一人の子を与えてくださいました。その子がソロモンです。神様は預言者ナタンを通して、その子をエディデアと名づけたとあります。エディデアとは「主に愛される者」という意味です。ダビデは、この子を通して神様に罪が赦されたと感じたのではないでしょうか。デビではソロモンを愛し、彼を自分の後継者とされたのです。詩篇の51篇に悔い改めたダビデが作った詩が記録されています。

2、人間の罪と十字架の赦し。

聖書が指摘する罪は、この世の法律に従わない罪だけではありません。聖書における罪は、神様が定めた法律に従わないことです。それゆえ、イエス様がマタイの福音書5章で指摘しているように、姦淫の罪を犯さなくても、情欲をいだいて女性を見る者はすでに心の中で姦淫の罪を犯したのですと言われたことは、神様の罪の基準が人間の力を超えた領域にあることを示しています。わかりやすく言えば、神様が私たちに求める聖さの基準は、私たちが努力して守れるレベルではないということです。それゆえ、旧約聖書の時代、神様は、イスラエルの民に対して、自分の罪を認めて、悔い改め、自分の罪の身代わりとして、動物の犠牲をささげるように命じられました。旧約聖書のレビ記を見るなら、様々な罪について、牛や羊をその人の罪の身代わりとして神様にささげるように命じています。

しかし、新約聖書に入って、動物の犠牲は、完全な罪の贖いにはならないことを教えています。それゆえ、神様は私たちの罪の問題を解決するために、神のひとり子、イエス様を人としてこの地上に遣わされたのです。マタイの福音書の始めに、マリヤが処女で聖霊によって身ごもったことが記されています。私は初めこのマリヤの処女降誕の話を信じることができませんでした。一人の女性がどうして子を身ごもることができるのか、信じられませんでした。私たちはどのような方法で、一人の処女が身ごもることができるのか、今でも説明することは出来ません。しかし、神の子が人と同じ体で生まれなければならなかった理由はわかります。もし、イエス様が神の体のままで、この地上に誕生されたならば、イエス様は私たちの罪の身代わりとして死ぬことができません。イエス様は私たちの罪の完全な贖いとして十字架の上で死ななければならなかったのです。また、イエス様がマリヤとヨセフによって、私たちと同じように、夫婦の関係で誕生したならば、イエス様も罪人として生まれてしまいます。罪の無い、完全な神の子でなければ私たちの罪の身代わりとなることは出来ません。それゆえ、イエス様は二つの理由により、処女マリヤより人として生まれなければならなかったのです。(1)人の罪の身代わりとして死ぬため。(2)罪の無い完全な人として生まれるため。

神様は、完全な者として、アダムとエバを創造してくださいました。しかし、アダムとエバはサタンの誘惑により罪を犯してしまいました。私たちはアダムの子孫として、罪を犯しやすい性質「原罪」を持って生まれてしまいます。それゆえ、旧約聖書の時代は、悔い改めと動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、動物の犠牲も不完全な贖いで、完全な罪の赦しとはなりませんでした。それゆえ、神様は、一人子イエス様を人としてこの地上に遣わし、私たちの罪の身代わりとして、十字架の上でいのちを取られたのです。今、私たちは、悔い改めと、イエス様を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しを受けることができます。神に選ばれたダビデさえ、王様になると気をゆるし、罪を犯してしまいました。私たちも同じように、罪を犯しやすい者です。それゆえ、神様は私たちの救いのために、ご自分のひとり子イエス様を十字架の上で犠牲にされたのです。自分の罪を認めて悔い改めることは難しいことです。しかし、私たちは聖書を通して、神様は私たちの罪を赦してくださる神様であることを知っています。それゆえ、私たちは恐れることなく、自分の罪を神様の前に差し出すことができるのです。また、旧約聖書の時代は、その罪が赦されるために、動物の犠牲をささげていました。しかし、今は、神の子イエス・キリストの尊い命がささげられました。それゆえ、私たちはそれ以上の犠牲をささげる必要がなくなったのです。神は神として人の罪を裁く裁判官としての役割があります。しかし、神ご自身の性質は愛です。それゆえ、私たちの罪を赦したいと願っています。この相反する二つの葛藤を解決するために、神はご自身のひとり子を十字架に付けて殺すという、ご自身にとって一番苦しい方法でこの問題を解決してくださいました。私は、初め神の子イエス様を十字架に付けて殺すほど悪い人間だとは思えませんでした。しかし、聖書を学ぶうちに、罪が何であるかを知るようになりました。新約聖書のヨハネの福音書8章で姦淫の女性がイエス様の前に連れて来られ、パリサイ人たちがあなたらなどのように裁くかと問いかけた場面があります。その時、イエス様は「あなたがたのうちで、罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いた人々は、年長者から始め、ひとりひとり出て行き、イエス様ひとりが残されたとあります。年長者ほど、強く自分の罪が示されたのでしょう。確かに私たちは、ダビデのように姦淫の罪は犯してはいませんが、神様の目には同じ罪人です。私たちはその罪をイエス様の十字架の死によって赦されたのです。世界中にたくさんの宗教があり、神々と呼ばれる神様が存在しています。しかし、どの神々も人の罪の問題を解決した神は存在していません。聖書の真の神だけが、ご自分のひとり子を、人の罪の身代わりとすることで初めて、私たちの罪の問題を解決してくださったのです。それこそが。キリスト教と他の宗教との大きな違いです。私たちの信じる神は私たちの罪を赦される神です。しかし、その神は私たちの罪を赦すために、ひとり子イエス・キリストという、最大限の犠牲を払ってくださったのです。