ダビデの悲しみ

「ダビデの悲しみ」サムエル記第二 15章1節~12節

先週は、ダビデの罪と悔い改めについて学びました。今日は、ダビデの悲しみについて学びます。

ダビデはイスラエルの王として平安な日々を過ごしたわけではありません。ダビデには何人もの奥さんがいましたが、その子供たちがダビデにとって悲しみの原因となりました。

ダビデの長男アムノンは、腹違いの妹タマルを愛してしまいました。そして、アムノンは病気と偽って、タマルを自分の病室に招き入れ、強引に彼女を犯してしまいました。また、そのことで、アムノンはタマルに対して憎しみをいだき、彼女を外に追い出してしまいました。タマルは失意のまま自宅に帰りました。彼女の兄アブシャロムは彼女を慰め、父ダビデがどのような裁きを下すか、待つことにしました。しかし、ダビデはその出来事を聞いて激しく怒ったとありますが、何の裁きも下しませんでした。イスラエルの国では、姦淫の罪は重く、死罪に定められます。しかし、アムノンの命をおしんだダビデはこの事件をうやむやにして、アムノンに何の裁きも下さなかったのです。

それから二年たっても、アムノンに何の裁きも下りませんでした。そこで、アブシャロムは自分で兄アムノンを殺す計画を立て、実際にアムノンを殺して、国外に逃亡してしまいました。ダビデは長男アムノンを殺され、アブシャロムを憎みました。それからしばらくして、ダビデの将軍ヨアブはダビデとアブシャロムの関係を心配して、ダビデ王に、アブシャロムを赦し、国に連れ戻すように進言しました。ダビデはアブシャロムを呼び戻しましたが、ダビデとアブシャロムは二人とも和解することができませんでした。

父ダビデに失望したアブシャロムは、自分がイスラエルの王になることを考えるようになりました。アブシャロムは、4年の歳月を費やし、人々の心を自分に向けさせ、ダビデを殺し、自分が王になる計画を実行しました。それを知った、ダビデは自分のいのちを守るために、急いで国を捨て、荒野に逃げて行きました。ダビデが急いで国から逃れたとき、二つの出来事に目を留めたいと思います。

1.神の箱(サムエル記第二15章24節~29節)

ダビデがエルサレムの町を出たとき、祭司ツアドクは、神殿から「神の箱(契約の箱)」を持ち出しました。神の箱は神様の臨在を現す大切な箱です。ダビデは、この時、ツアドクに神の箱をエルサレムの神殿に戻すように命じました。ダビデたちにとって神の箱は、神様を味方につけたようなものです。アブシャロムと戦になった場合、神の箱を持っている方が有利に働きます。兵士たちの指揮も上がります。しかし、ダビデはその契約の箱を神殿に戻すように命じたのです。ダビデはツアドクにこのように言っています。25節26節「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるだろう。もし、主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをして下さるように。」ダビデはこの出来事を神様の御手にゆだねることができたのです。

2.ダビデを呪うシムイ(サムエル記第二16章5節~14節)

ダビデたちが国から逃れたとき、サウルのしもべシムイが、逃げるダビデたちに石を投げて呪いました。その時、ダビデの部下アビシャイがシムイの首をはねさせてくださいとダビデに進言しました。ダビデはシムイにこのように言いました。10節~12節「ツエルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼が呪うのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。ダビデはアビシャイと彼の全ての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては。なおさらのことだ。ほおっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせをむくいてくださるだろう。』」ここでも、ダビデはこの出来事を神様にゆだねたのです。

ダビデとアブシャロムが戦いを交える前に、ダビデは、自分の部下に、アブシャロムを「ゆるやかに」扱うように命じています。その意味は、アブシャロムの命は助けるようにという意味です。しかし、この戦いは、ダビデかアブシャロムのどちらかが死ななければ、終わる戦ではありません。ダビデの将軍ヨアブはそのことをよく知っていて、ヨアブはアブシャロムを自分の槍で突き刺し殺してしまいました。ダビデがアブシャロムの死を知った時、悲しみ嘆きました。アブシャロムではなく自分が死ねば良かったと、何度も悔やんだのです。ダビデとアブシャロムの戦いの原因は、ダビデが正しくアムノンを裁かなかったことにあります。ダビデがあの時、王として正しく裁いていればこの悲劇は起こりませんでした。また、アブシャロムを国に呼び戻したとき、互いに和解していれば、このような戦になることはなかったでしょう。ダビデとアブシャロムとの和解の時は何度かあったはずです。しかし、二人とも相手を赦すことができずに、この悲劇を起こしてしまったのです。

聖書の主題は、神様と人間の和解です。神は人間をご自分と親しい者として創造してくださいましたが、その信頼を裏切ったのは人間です。本来、アダムとエバが罪を犯したときに、二人は神によって裁かれ殺される存在でした。しかし、神様は二人を助け、エデンの園を追い出すだけにしました。また、二人の哀れな姿を見て、皮の衣を下さったとあります。そこから神様と人間の和解の歴史が始まったのです。そして、神はご自身のひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを奪うことによって、神と私たちの和解の道を完全に完成されたのです。神は罪を犯した私たちをあの放蕩息子の父親が息子を迎えるように待っておられます。人が和解するためにはお互いが歩み寄らなければ和解は成立しません。今、神様が私たちを赦すために、私たちに歩み寄って下さいました。後は、私たちが自分の罪を認めて、父なる神に歩み寄るだけです。救いはすでにイエス様によって完成されました。私たちは、神様の御前に、どれだけ多くの罪を犯したでしょうか。それでも神様は私たちを赦し、イエス様のいのちと交換に、私たちの救いの道を備えてくださいました。後は、私たちが自分の罪を認め、神様に近づくだけです。神様は喜んで私たちを受け入れ、迎えてくださるのです。