神のことばを信じたヨセフ

「神のことばを信じたヨセフ」マタイの福音書1章18節~25節

神様を信じるとは、神様の存在を信じるということだけではありません。日本において、神様の存在を信じている人はたくさんいます。しかし、自分が信じている神様がどのような神であるかを知って信じている人は多くはありません。漠然と神様の存在を信じているということでしょうか。しかし、クリスチャンが神様を信じると言うとき、それは神様の存在を信じると言う以上に、神様がどのようなお方であるかということを知っているという意味です。

(1)神は愛です。その表れが、キリストの誕生と十字架の死です。
(2)神は義なる神です。それゆえ、神は罪を犯した人間を公平に裁かなければならない権威があります。
(3)神は、ご自身を聖書を通して私たちに伝えています。(啓示)

私たちクリスチャンが信じている神様はそのようなお方です。

1、マリヤの夫ヨセフに示された神の子イエス・キリストの誕生(マタイ1:18~5)

マタイの福音書1章18節から25節で、神様はマリヤの夫ヨセフに、救い主イエス様の誕生を伝えています。18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」とあります。ユダヤ教では、1年間の婚約期間を過ぎた後、正式に夫婦としての生活が始まりますが、この婚約期間も、ユダヤの法律では正式な夫婦として登録されます。それゆえ、二人は婚約期間で夫婦ではありますが、この時はまだ、共に生活はしていませんでした。それなのに、マリヤのお腹が大きくなっていることにヨセフは気付いたのです。マリヤは聖霊によってイエス様を身ごもったのですが、そのことはルカの福音書に詳しく記されています。しかし、この時、まだそのことはヨセフには知らされていませんでした。それゆえ、ヨセフが考えたことは、マリヤが自分を裏切り、他の男性と関係を持ち子を身ごもったということです。この状況で、ヨセフには、二つの選択が考えられました。

(1)マリヤを姦淫の罪を犯した者として、公にし、石投げの刑とする(複数のものがマリヤに石を投げて殺す)。マリヤは自分を裏切ったのだから当然の報いとして、死をもって償ってもらう。もし、ここでヨセフがマリヤを殺してしまえば、神様の救いの計画は完成しませんでした。
(2)マリヤをさらし者にしないで、ひそかに離縁して、実家に帰す。

マリヤを愛するヨセフは、マリヤをさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと考えました。もし、マリヤがヨセフに離縁されて、イエス様を生んだとしたら、イエス様は父親を知らず、母子家庭で育てられることになったでしょう。

しかし、神様はヨセフに第三の選択を示されたのです。主の使いがヨセフに夢に現れこのように言われました。20節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」24節「ヨセフは眠りから覚め、主の使いに命じられたとうおりにして、その妻をむかえいれ」とあります。ヨセフは主の使いのことばを信じ、マリヤを受け入れ夫婦となり、神の子イエス様をマリヤと共に育てる決心をしたのです。ヨセフははたして、主の使いが告げた「聖霊によって身ごもり、男の子が生まれる」ということを理解できたのでしょうか。処女が聖霊によって身ごもり、男の子を産むなどとうてい理解ができなかったことでしょう。それは、人間の知恵を超えた出来事です。ヨセフは神様の御業を理解したのではなく、神のことばがその通りになることを信じたのです。そのことは、私たちがイエス・キリストが神の子であることを信じることと同じです。私たちが、イエス・キリストを神の子と信じるのは、何か確かな目に見える証拠があるからではありません。私たちは聖書が神のことばであることを信じ、また、その聖書がイエス・キリストを神の子と証言しているので、イエス・キリストを神の子、救い主と信じているのです。処女降誕、死よりの復活を科学的に理解したわけではありません。しかし、罪の無い神が肉体を持って生まれなければ、私たちの身代わりとして死ぬことは出来ません。その方法はわかりませんが、イエス様が罪の無い方として生まれるためには、処女降誕という方法以外ないと私は信じています。また、イエス様は肉体を持って生まれましたが、本質は神の性質を持っておられたので、死より三日目に復活することができました。それも、イエス様が神の子であるという前提があって成り立つことです。イエスを神の子と信じない人にとっては、死者の復活など信じることは出来ないでしょう。

ユダヤ人たちは、偉大な創造主である神が、人として生まれるなど信じることができませんでした。それゆえ、イエス・キリストがご自分のことを神の子と認めたことを、神を冒瀆した罪として十字架に付けて殺してしまったのです。ある人は、イエス様の処女降誕と復活を理解できないから、神様を信じることができないと言います。しかし、考えてみれば、私たちが神様の御業全てを理解できたとしたら、そのような神は神と言えるでしょうか。人間の知恵で理解できる神など、人間と同じレベルの存在で、決して神として崇める値打ちはありません。神と人間とは大きな隔たりがあります。神は創造主で、人間は被造物(神によって創られたもの)です。私たちが神様の前に、自分の不完全さ弱さを認める時、神様は神様を信じる力を上から与えてくださるのです。

2、世界の宗教について

世界の宗教は大きく二つに分けることができます。(1)一神教(2)多神教です。

(1)一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。この三つの宗教に共通することは、神は一人、創造主なる神だけで、旧約聖書を神のことばと信じています。これを啓示の宗教と呼びます。
(2)多神教は汎神論ともよび、人や動物、自然を神として崇めます。そういう意味では、人間が人、動物、自然を神と認めると言うことができます。

図に表すと、一神教が神から人に掲示が下り、多神教は、人から神に矢印が昇るようなイメージです。クリスマスの時、イエス・キリストの誕生をただの昔の物語として耳を傾けるのと、自分の罪の身代わりとなる救い主がお生まれになられたことを信じるのとでは、大きな違いがあります。あなたは、今年のクリスマス、どのような思いで、イエス・キリストの誕生クリスマスを迎えるでしょうか。