新しい恵みの時代の到来

「新しい恵みの時代の到来」ヨハネの福音書1章15節~17節

イエス・キリストの誕生によって、何が変わり、私たちの生活にどのような変化が与えられたのでしょうか。世界の歴史はBCとADに分かれています。日本語ではBC紀元前と呼び、ADを紀元後と呼びますが、元の意味はBCがbefore Christ(キリスト以前)とADはラテン語でAnno Domini(キリストの年)という意味です。イエス・キリストの誕生によって時代が変わったことを表しています。

聖書で考えるならば、旧約聖書の律法による救いから、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による救い、イエス・キリストの恵みによる救いの時代が到来したと言うことです。以前教会に来る前は、聖書の旧約聖書は古い翻訳で新約聖書は新しい翻訳だと勘違いしていました。聖書の文字を見れば明らかですが、旧約聖書とは神様との旧い契約で新約とはイエス・キリストによって結ばれた新しい契約あることは、教会に通いだして知ったことです。

ヨハネの福音書の著者ヨハネはバプテスマのヨハネのことばを引用して、17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と教えています。モーセはイスラエルの民の偉大な指導者で、モーセによって、十戒が与えられ、また、幕屋(移動式の礼拝所)が作られ、様々な規則が与えられました。また、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はモーセが書いたと言われています。しかし、旧約の時代、イスラエルの民はこの神様の戒めを守ることができませんでした。それゆえ、イスラエルの国は、ソロモンの後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれました。しかし、その二つの国も、北イスラエル王国はBC720年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はBC585年にバビロニヤに滅ぼされてしまいました。バビロニヤに捕囚として連れて来られたユダヤ人たちは、自分たちの国が滅ぼされたのは、自分たちの先祖が神様の戒めを守らなかったからだと反省し、バビロニヤにおいて、会堂を建て、動物をささげる神殿礼拝から、神様のことば(旧約聖書)を学ぶ礼拝へと変わりました。捕囚から70年後に国を再建することを許され、もう一度神殿を再建しましたが、ユダヤ人たちは、神殿礼拝を続けながら、安息日には会堂に集まり会堂礼拝をも続けたのです。

イエス様が誕生した時代、ユダヤ教は完成され、聖書を教える律法学者たちの地位が高められ、その力が大きくなっていきました。彼らは、ユダヤ人に神様の戒めを守らせるために、さらに多くの戒めを加えることによって、人々の生活をしばり、重荷を負わせる結果となってしまったのです。そんな時代に登場したのが、バプテスマのヨハネです。律法学者たちは、自分たちは神様に選ばれた選民、特別な民としてユダヤ人には罪が無いと教えていました。ユダヤ教にも洗礼と言う儀式は以前からありました。しかし、それは、ユダヤ人以外の異邦人がユダヤ教を信じる時に、今までのけがれを洗い流すという意味で実行されていました。しかし、バプテスマのヨハネは、ユダヤ人にも罪があり、ユダヤ人も異邦人と同じように罪を洗い流すために洗礼を受けなければならないと群衆に宣べ伝えたのです。バプテスマのヨハネの説教を聞いた人々は心刺され、自分の罪を認めて、彼からバプテスマを受けようと多くの者たちが、バプテスマのヨハネのもとに集まってきました。

バプテスマのヨハネは、旧約聖書に預言されていた、救い主の前に遣わされるエリヤのような預言者でした。彼は、イエス様の前に、ユダヤ人たちに罪を認めさせ、悔い改めさせて、主の道を真っすぐにする者、主の道を整える者としての役割をはたしたのです。そういう意味では、バプテスマのヨハネは、旧約聖書と新約聖書をつなぐ大切な役割を果たしたと言うことができます。

しかし、バプテスマのヨハネは救い主ではありませんでした。彼はイエス様の前の道を整えるだけで、本当の救いは、神の子イエス・キリストによらなければ救いは与えられませんでした。イエス・キリストはバプテスマのヨハネの働きを引き継いだような形ですが、バプテスマのヨハネの授ける洗礼は、外側だけ(体だけ)を清めるだけで、罪の問題を解決することは出来ませんでした。それは、神の子イエス・キリストに委ねられた特別な働きでした。

イエス様が登場するまで、人々は律法(神様の戒め)を守ることによって、正しい者、罪の無い者になろうと努力しましたが、それは不可能なことでした。人々は心の中に起こる罪(怒りや憎悪、高慢、好色)などを抑えることができませんでした。それでも、律法学者パリサイ人たちは、自分たちは正しい人間で、神様の律法を守っていると人々に誇っていたのです。そんな時代にイエス様が登場し、律法学者パリサイ人たちの行動を非難しました。そして、人々は、段々とイエス様の方に集まるようになりました。律法学者たちは、このままでは、自分たちの教えがだめになってしまうとイエス様を恐れ、イエス・キリストを捕らえ、裁判に掛けて神を冒瀆した罪で死刑の判決を下し、十字架に付けて殺してしまったのです。

しかし、それも神様のご計画でした。罪の無い神の子が無実で、人々の罪の身代わりとして殺されなければ私たちの罪の問題は解決しませんでした。イエス様は十字架に付けられて殺されましたが、イエス様は神の子ゆえに死より三日目に復活され、天の父のもとに昇って行かれました。イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちの罪の問題は解決されたのです。

今は、イエス・キリストが誕生したことによって、私たちは恵みの時代に生きています。今、私たちが救われ天国に入るために、神様の戒めを守り正しい人間にならなくても、新しい天国の門が開かれたのです。今の時代に天国に入るために私たちがすることは二つあります。(1)自分の罪を認めること。(2)イエス様がなしてくださった神の御業を信じることです。イエス様は群衆に言われました。マタイの福音書7章13節14節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

「滅びに至る門は大きく、その道は広い」と言われました。それは、多くの人々が歩んでいる道です。しかし、イエス様が備えてくださった門、道は「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と言われました。キリスト教はイエス様を信じる以外には救いは無いと教えています。もし、神の子キリストの死以外に救いがあるとしたら、神様はあえて、ひとり子イエス様を人として誕生させて、十字架で殺すでしょうか。神様がご自分の子イエス様をこの地上に送って下さったのは、それ以外に人を救う方法がなかったからです。それほど、私たちの罪は神様の前に大きく積まれているということです。クリスマスを終えて、私たちは自分の罪の問題をどのように解決することができるか考える時が来ました。すでに、イエス様によって救いの門は開かれました。それでも、あなたは自分の正しさや努力によって天の御国に入ろうとする者でしょうか。今は恵みの時代です。イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、天の御国に入ることができる新しい時代です。私たちはこの恵みをただでいただける時代に生きています。神様の恵みを無駄にしないようにしたいと思います。