会堂管理者と長血の女性

「会堂管理者と長血の女性」マルコの福音書5章21節~43節

新約聖書を読んでおりますと、イエス様と人々の出会いには二つの形があることに気が付きます。一つは、イエス様自身がその人を訪ねていく場合。もう一つは、人々がイエス様に助けを求めてくる場合です。先ほどお読みしました、マルコによる福音書に登場する会堂管理者と長血を患った女性は、イエス様に助けを求めて来た人々です。しかし、その登場の仕方には大きな違いがあります。会堂管理者は多くの群衆の前で、娘を助けてほしいとイエス様の前にひれ伏したとあります。長血を患った女性は、誰にも分らないように(イエス様にさえわからないように)隠れてイエス様に近づきました。

1.会堂管理者とイエス様。

南ユダ王国が滅ぼされ神殿が破壊された後、南ユダ王国に住む技術者、貴族、王族に属する有能な者の多くが、バビロニヤに捕囚として強制的に連れて行かれてしまいました。彼らは、バビロニヤで神様を礼拝するために、会堂を建て安息日に集まり、神を礼拝するようになりました。そのころから、旧約聖書を研究し、ユダヤ人に旧約聖書を教える律法の専門家、律法学者たちが誕生しました。その後、捕囚が許され、ユダヤ人の中でも特に信仰に熱心な者は、ユダヤの国に帰り、国を再建し神殿を立て直しました。しかし、それでも、ユダヤ人たちは、会堂に集まって礼拝することを止めませんでした。それどころか、ユダヤ教の中心は会堂礼拝が中心となり、律法学者や会堂の責任者である会堂管理者の地位が高められていきました。会堂管理者はその地域の長老から選ばれる名誉職で、信仰と経済的豊かさと人々の人望がなければ選ばれることのない名誉職です。この時のイエス様の立場は、一般民衆や貧しい人々からは尊敬されていましたが、お金持ちや律法学者、地位の高い人たちからは全く尊敬されていませんでした。そんな状況の中で、この会堂管理者はイエス様の前にひれ伏したのです。周りの人々はどれほど驚いたことでしょう。この会堂管理者がイエス様の所に来たのは、自分の娘が病のために死にかけ、何とかイエス様の力で娘を助けてほしいと懇願するためにイエス様の所に来たのです。この会堂管理者はイエス様が人々の病をいやしてきたことをうわさで聞いていたのでしょう。イエス様が近くに来たことを知り、なんとか、娘を助けてほしいと必死の思いでイエス様の前にひれ伏したのです。彼はこの事によって会堂管理者という名誉職を失うかもしれない。そんな危険をおかしても自分の娘が助けられるならと必死の思いでイエス様の前にひれ伏したのです。イエス様もその姿を見て彼の家に行くことを承諾されたのです。

2.長血を患った女性とイエス様。

先程、彼女は人知れずイエス様に近づいたとお話しました。それには理由がありました。当時、血が止まらない病は、汚れた者とされ、人々から忌み嫌われました。彼女がさわった物や彼女が座った椅子さえ汚れた物とされ、人々は彼女から汚れを受けないように、彼女に近づくことを皆避けていたのです。そんな存在ですから、彼女は人知れず、イエス様に近づき、イエス様にさわったのです。もし、群衆が彼女に気が付いたなら大騒動になっていたでしょう。彼女はそのことも気にしつつひそかにイエス様に近づいたのです。また、彼女にしてみたらこの苦しみが12年も続いているのです。この機会を失ったら、二度とイエス様に近づくことは出来ないかもしれません。また、イエス様なら自分の病をいやすことができるかもしれないと信じて、危険をおかしてイエス様に近づいたのです。彼女がイエス様に触れると彼女の病はいやされました。しかし、イエス様は彼女をそのままにしては置かれませんでした。イエス様は「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。彼女の病はただの病ではありません。彼女の病が神様によっていやされたことが町中に知れ渡らなければ、彼女の社会的立場は回復されません。それゆえ、イエス様はあえて、自分にさわった者を捜されたのです。彼女はひそかにイエス様にさわったことをとがめられるとおそれながら、イエス様の前に立ちました。イエス様は彼女を見て「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われ、彼女の病がいやされたことを公に宣言されたのです。

そうこうしているうちに、会堂管理者の家から、娘が亡くなったことが知らされました。彼はどんなに落胆したことでしょう。しかし、イエス様は彼を励まし、彼の家に来て下さいました。彼の家はすでに葬儀の準備がなされようとしていました。ユダヤ教の葬儀には「泣き女」と呼ばれる職業があり、葬儀の場で大げさに泣き叫び、悲しみを演出する仕事がありました。人々が取り乱し、泣いているのは、すでに娘が亡くなって葬儀の準備がなされていることを表していました。イエス様は彼らを見て「こどもは死んだのではない。眠っているだけです。」と言われました。しかし、人々は娘が死んでいのを知っていたので、イエス様をあざ笑ったのです。イエス様は死んだ彼女の手を取り「タリタ、クミ」と言われました。彼女はその言葉に応え起き上がったのです。この話を読むたびに、この二人の人の必死さとイエス様にすがる信仰に圧倒される思いがします。

3.べテスダの池で38年も病に苦しむ男性とイエス様との出会い。

ヨハネの福音書5章に、38年も病に苦しみ、べテスダの池で横たわっている男性とイエス様の出会いの話が記されています。彼がこの池のそばで横たわっているのは、この池にいやしの効果があり、池の水が動かされた後、一番先に池に入った者の病はどんな病でもいやされるという言い伝えがあったからでした。彼以外にも病のいやしを信じて多くの者がこの池の周りに集まっていたのです。イエス様は彼に「よくなりたいか。」と声をかけました。普通なら、「はい。良くなりたいです。私を助けてください。」と答える所ですが、彼はこのようにイエス様に言いました。7節「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです。」と答えました。彼の答えは否定的で、病がいやされることをあきらめているように感じさせます。人は、彼のように病が長引くことによって、治ることに希望を持つことができなくなってしまうことがあります。イエス様はそんな彼に「よくなりたいか。」と問いかけられたのです。その言葉の中には、「わたしを見なさい。」という、イエス様の気持ちが含まれていたのではないでしょうか。イエス様は彼に対して「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。すると、男はすぐに立ち上がって床を取り上げて歩き出したのです。

私たちの祈りも、20年30年祈っても何の変化も見えなければ、あきらめて祈らなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。神様はどうせ私の祈りは聞いてくれない。神様は私のことなど気にもしてないのではないか。神様は私のことなど愛してはいないのではないかと、神様との関係を否定的にしか見られない時があります。しかし、神様はこの男性と同じように「よくなりたいか。」と語りかけてくださるお方です。病だけではなく、家族の救いなども、祈っても変化がないとあきらめて祈らなくなってしまいます。時は神様だけが定めておられます。いつ、病がいやされるのか、家族が救われるのかわかりません。それゆえ、神様の時を信じて祈り続けたいと思います。