神の愛(2)十字架の苦しみと死

「神の愛(2)十字架の苦しみと死」マタイ27章45節~50節

先週はバレンタインデーが近いということで、神様の愛と人の愛の違いについてお話しました。特に、神が人となられたこと(受肉)について。罪の無い神が私たちと同じ肉体を持ちこの世の中に生まれることは、私たちが豚となり、豚と共に生活をすること以上に辱めを受けることで、人間にはできないことです。しかし、イエス様は私たちを罪の刑罰から救うために、神の姿を捨てて、私たちと同じ肉体を持って生まれてくださいました。聖書はそれこそが神様の愛の表れだと教えています。

1.十字架の苦しみに耐え、死にまで従われた神の子イエス・キリスト。

 先週お読みしましたピリピ人への手紙2章8節に「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死にまでも従われたのです。」とありました。イエス様は自分を卑しくし、人としてお生まれになられただけではなく、十字架刑と言う当時、一番苦しい刑罰によって殺されました。イエス様より先に生まれて宣教の働きをしたバプテスマのヨハネは、ヘロデによって首を切り落とされて殺されました。首を切り落とされることは、痛みは伴いません。一瞬の出来事です。しかし、十字架刑は、十字架に直に手足を釘づけにされ、その十字架を立てることによって、手と足の釘に全体重がかかり、ものすごい痛みを伴う刑罰です。また、十字架に磔(はりつけ)にされて、すぐに死ぬわけではありません。死ぬまでその痛みに耐えなければなりません。イエス様の場合、12時頃に磔にされ、3時までその痛みに耐えられました。イエス様はその痛みに耐えながら次のように叫ばれたとあります。46節「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか。』という意味である。」ある宗教のグループはこの聖書の個所から、イエス・キリストは神に見捨てられて救いを完成できなかった、失敗したと教えています。しかし、そうではありません。このイエス様のことばには二つの解釈があります。

(1)詩篇22篇を叫ぼうとした。

 旧約聖書の詩篇22篇は、イエス様が叫ばれたと同じ言葉で始められています。詩篇22篇1節「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。」ユダヤ人は、神様のことばに熱心な民で、小さい頃より、旧約聖書を読まされ、旧約聖書のことばに慣れ親しんでいました。また、この詩篇22篇は決して、神様を呪った詩ではありません。前半部分は神様に捨てられ、神様に恨み言を言っているようですが、最後まで読めばわかりますが、この詩篇の作者は、苦しみの中で神様に叫び、最後は神様に全てを委ね、信頼することばで終わっています。イエス様がこの詩篇を叫ばれたのは、この苦しい状況でも、わたしは神様に最後まで信頼していることをユダヤ人たちに知らせようとして、この詩篇を叫ばれたが、最後まで言う力がなく、最初のことばで息絶えてしまったという解釈です。

(2)イエス様は、一人の罪人として、死の苦しみを受け取らなければならなかった。

 神様はイエス様が生まれる前から共におられました。また、地上においては、イエス様と父なる神様は祈りにおいて繋がれておりました。神様を信じる者にとって死は、恐ろしいものではありません。神様はイエス様を神の子と信じる者に永遠のいのちを約束して下さいました。しかし、神様との関係のない人にとって死は、恐怖でしかありません。それは、死んだ後にどうなるかわからないからです。イエス様が全ての人の苦しみを背負うためには、この死の恐怖をも体験しなければなりませんでした。死は、この世の最大の苦しみであり恐怖です。それゆえ、イエス様が十字架に付けられた時、神様はイエス様から離れ、イエス様は一人で死の恐怖を背負い、神様に見放された状態に置かれたという解釈です。どちらが正しい解釈かわかりません。しかし、イエス様は私たちを救うために、私たちの想像以上に苦しみを背負われたことは事実です。どうして、そこまで、苦しみに耐えてくださったのでしょうか。(1)それほど、私たちの罪は神様の前に大きく、神の子がそのような苦しみを負わなければ、私たちは自分の罪から救われない。(2)神様の愛は大きく、それほど私たちを愛しておらられるということです。

2.証し。

 私の先生が神学生だった頃、子どもが三人おられて、とても苦しい生活をしていました。ある時、教会の裕福な夫妻に声をかけられ、共に食事をされました。その時にその夫妻から、三人のこどものうち、一人を養子にもらえないかと話をされたそうです。しかも、お金持ちですから、有名な大学を卒業させ幸せにするのでぜひ、三人のうち、一人を養子に下さいとお願いされたそうです。先生は心の中で、怒りを抑えるのに必死だったそうです。家に帰ってからも怒りが収まらず、翌日の朝の祈りの時間になっても怒りが収まりませんでした。その時に、心に一つのことばが入って来たそうです。「あなたは何を怒っているのか。」先生は昨日の話を口にしました。すると、「わたしはあなたのために一人子を十字架に付けて殺しました。それなのに、あなたは三人も子どもがあり、しかも大学を卒業させて幸せにすると言われたのに、どうしてそんなに怒るのか。」ここで先生は、初めて神様の声であることに気が付きました。自分は三人も子どもがあり、しかも、大学までも卒業させると約束してくれたのにこんなに怒っている。それなのに、神様は自分の子が十字架に付けられて殺されることを知っていながら、この地上に遣わしてくださった。その父としての苦しみ、また、神様の愛に気付かされて、その時にたくさんの涙を流されたと話してくださいました。

 誰でも同じような体験をすることはありませんが、私の子どもが、4歳か5歳の頃、40度の熱を出して苦しんでいました。私たち夫婦は初めてのことで、どうしていいかうろたえていました。その時、私は心の中ですが、神様に、「私の命を奪ってもよいからこの子を助けてくださいと。」と祈ったことがあります。親にとって我が子は、自分の命より大切なものです。神様にとってもそれは同じことでしょう。それでも、神様は私たちを救うために、ひとり子を人としてこの地上に誕生させてくださいました。また、それだけではなく、十字架に付けて殺すという、最大の苦しみを我が子に背負わせたのです。神様は、十字架の上の我が子の苦しみを見てどう思われたのでしょうか。胸が張り裂けんばかりの苦しみを感じられたのではないでしょうか。十字架、それはイエス様だけの苦しみではありませんでした。父なる神様もイエス様の苦しみを見て、同じように苦しみを負われたのです。そんな苦しみを負ってさえも私たちを救うために、苦しみに耐えてくださいました。それこそが神様の愛の姿です。それでも、人間の知恵ではこの神様の愛を理解することは出来ません。私たちは自分の限界を知り、素直に、自分の罪を認める時、神様ご自身が私たちに近づいてくださり、初めて、この偉大な神様の愛に気付くことができるのです。