人間の罪と神の贖い

「人間の罪と神の贖い」 創世記3章1節~13節

 カウンセリングの学びを始めて3年が過ぎました。カウンセリングの働きは、人の心の問題を扱う仕事ですから、人間についての理解が不可欠です。カウンセリングを学ぶ以前は福音的な理解で聖書の人物を考えてきました。しかし、これからしばらく、カウンセリング的なアプローチで聖書の人物を考えてお話をしていきたいと思います。

1、 神と人間。  創世記の1章で、神様は六日間で天地全ての物を創造されました。そして、神はそれを見て非常に良かったと仰せになられました。また、神はこの創造の最後に人を創造されました。そして、それは、この地上を管理する者として、神ご自身に似せて創られたと記されています。この時点で、罪はまだあらわれていません。神の創造に罪は含まれていなかったのです。では、どこで、罪は発生し、なぜ、神が望みもしない罪の問題が発生したのでしょうか。

 創世記の3章で、ヘビが登場し、女性エバを誘惑しました。ヘビが女性エバを誘惑したというよりも、悪魔がヘビの狡猾さを利用して女性に近づき、女性エバを誘惑したということです。悪魔の誘惑の目的は、アダムとエバに罪を犯させ、神様との親しい関係を断ち切ることにありました。そこで、悪魔は、神様がアダムに仰せられた戒めを持ち出し、5節「あなたがたがそれ(善悪の知識の木)を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と女性エバを誘惑したのです。人間にとって最大の誘惑は「神と同等の権力と力を持つことです。」新約聖書においても、イエス様が40日断食された後、悪魔から受けられた誘惑は、「私に従うならば神のような権力を与えよう。」というものでした。しかし、イエス様はそれらの誘惑を旧約聖書の御言葉によって退けられました。しかし、この時のアダムとエバは、6節「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。善悪の知識の木から取って食べた二人は、神のようになれたでしょうか。7節「このようにして、二人の目は開かれ、それで、彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。二人の目は開かれましたが、神のようになることは出来ませんでした。ここで、二人は互いが裸であることを知り、いちじくの葉をつづりあわせて腰のおおいを作り、自分の裸を覆ったのです。罪を犯す前、二人は互いに裸であっても何の抵抗もありませんでした。それこそ、裸であることが自然の美しさだったのです。しかし、罪を犯した二人にとって裸の姿は、神の前に身を隠さなければならない罪人の姿になってしまいました。それゆえ、二人は、神の声を聞いた時、とっさに神様の御顔を避けて木の間に身を隠してしまったのです。

 神は、罪の体を隠して木の間に隠れた二人に呼びかけました。9節「あなたはどこにいるのか。」もちろん神様は二人がどこに隠れているのか知った上で、二人に呼びかけたのです。それは、二人に悔い改めを促す呼びかけで、神様は二人が自分の罪を認めて悔い改めることを願ってこのように呼びかけられたのです。悔い改めとは、自分の罪を認めて、神様との正しい関係に戻ることを意味しています。二人は、自分の罪を認めて悔い改めたでしょうか。12節「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」確かにアダムは、事実を述べていますが、自分の罪を認めないで、神様が自分の側に置かれた女が悪いと、自分の責任を認めないで、その責任を女性エバに責任転嫁しました。女性エバは、13節「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」女性エバも自分の罪を認めないで、責任をヘビになすりつけました。二人は自分の罪を認めて悔い改めませんでした。そこで、神様は、男性には労働の苦しみを与え、女性には出産の苦しみと夫に支配されるという罰を与えられたのです。

 ここで不思議に思うことは、なぜ、神様は二人が罪を犯す前に二人を止めることができなかったのかという疑問です。以前、自由意志の事でそのことに触れました。神様は人間に自由意志を与えられたということ。人はこの自由意志を与えられることによって、悪を選ぶことも善を選ぶこともできる人間として神によって創られました。しかし、それは、神が人間を信頼して人間に与えられた特権でした。しかし、二人は、悪魔に誘惑されて、神様の信頼を裏切り、悪を自ら選び罪を犯してしまったのです。この時、神様は二人をとめることができました。しかし、神様はある考え(意図)があって二人が罪を犯すことを容認されたのです。私たちは神様の考えを100%理解することはできません。しかし、この出来事で、一つ気付かされることは、「失敗にも意味がある。」「失敗から学ぶこともある。」ということです。旧約聖書に登場するヨブは、どうしてあれほどの苦しみを体験しなければならなかったのでしょうか。もちろん、悪魔が神様の権威に挑戦してきたがゆえに、神様はヨブが苦しみにあうことを許されましたが、それだけではありません。ヨブは苦しみを通して、新しく神様との関係を学ばなければなりませんでした。そのために与えられた苦しみです。そうであるならば、私たちも、失敗や苦しみから学ぶことがあるということです。私たちは失敗を通して、自分の弱さを知り、他人にも寛容な心を持つことができます。一度も失敗したことのない人は、自分を誇り高慢になり、人の失敗に寛容になることができません。失敗や苦しみにも意味があります。しかし、私たちが正しく、失敗や苦しみに向き合わなければ、アダムとエバのように、他人に責任を転嫁し、また、神様や社会を恨んでも益になりません。失敗や苦しみを正しく受け取り、神様の前に自分の罪を認めて、悔い改め神様に助けを求める時、私たちの人格が変えられ、成長した一人の人間として、神様との関係を回復することができるのです。しかし、この神様との関係を回復するために、神様はひとり子を犠牲にされた事、イエス様は十字架の上でご自身のいのちを犠牲にされたことを忘れてはなりません。アダムとエバが罪を犯したとき、神様はすでに神と人との和解の道を計画されておられたのです。それが、15節のことばです。おまえの子孫とは悪魔の事、女の子孫とはイエス様の事。悪魔はイエス様を十字架に付けて殺すが、イエス様は死より三日目に復活されて、悪魔の頭を踏み砕くという預言のことばです。また、神様はエデンの園から二人を追い出す時、二人に皮の衣を二人に与えられたとあります。皮の衣は動物の犠牲を表し、また、二人の罪を象徴的におおう神の姿を表しています。神は二人を怒りをもってエデンの園から追い出されたのではなく、これからも二人が外の世界で、生きることをできるように準備をして、二人をエデンの園から追い出されたのです。神はこの後も、アダムとエバの子孫を見守り、回復の時が来るのを待ち望んでおられたのです。