「生ける神の御子キリスト」

「生ける神の御子キリスト」  マタイの福音書16章13節~20節

 ピリポ・カイザリヤの地方を歩いている時、イエス様は弟子たちに、人々は「人の子」ご自分のことを何と言っているか尋ねられました。弟子たちは、「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人だと言っています。」と答えました。次にイエス様は弟子たちに対して、15節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問いかけられました。イエス・キリストをだれと信じるかということは、私たちの信仰の中心に問いかける大切な質問です。その答えによっては、本当に信仰を持っているか、持っていないかを分ける大切な質問となるからです。皆さんなら何と答えるでしょうか。

 ペテロは弟子たちを代表してこのように答えました。16節「あなたは、生ける神の御子キリストです。」それに対してイエス様はこのように言われました。17節「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」人々のイエス様に対する考えは、偉大な預言者と言う見方でした。しかし、ペテロはそれを上回って「生ける神の御子キリスト」と信仰告白をしました。しかし、イエス様はそれに加えて、その信仰告白は、ペテロがそのように信じて告白したのではなく、「天にいますわたしの父です。」と言われました。このことばから、私たちがイエス・キリストを神の御子と信じる(告白する)ためには、天におられる父(神)の力がなければ告白することができない。別の言い方をするなら、父なる神様の力なくして、人間の力では、イエス・キリストを神の御子と告白することは出来ないということです。

 私が教会に来て、聖書を読み始めた頃、イエス様の「処女降誕」と「イエス・キリストが死から三日目に復活された」ことを信じることができませんでした。処女降誕について、マリヤは他の男性と関係を持ち身ごもり、それを隠すために、聖霊によって身ごもったとヨセフに偽り、ヨセフもお人好しでマリヤにだまされたと考えました。また、復活については、弟子たちが、イエスの遺体を墓から盗み出し、ひそかに他の場所に葬って、イエスが復活したと人々に言い広めたので、そのように人々が信じたのだと考えました。聖書を注意して読むなら、マリヤはそのような女性ではないことがわかるし、弟子たちがイエス様の体を墓から盗み出すことは不可能なことがわかりますが、一度聖書を読んだだけでは、表面的にしか理解できないので、自分勝手に処女降誕と復活を理解したのです。しかし、新約聖書を何度も読んでいるうちに、聖書はイエス・キリストを神の御子として表現していることに気が付きました。今まで、処女降誕と復活が信じられなかったのは、イエス・キリストを同じ人間としか見ていなかったからです。それは、先ほどの人々がイエス様をエリヤとかエレミヤと答えた人々と同じでした。ある時、目からうろこが落ちたように、イエス・キリストは神の御子だ、私たち人間とは違うから、処女降誕とか復活することができたのだと、詰まっていた何かが取れたように、聖書の全体をそのままで信じることができました。それは、まさに、父なる神の力でした。

 イエス様はマタイの福音書16章20節で、「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」とあります。それは、先ほどのペテロの信仰告白が自分から出たことではなく、天の父の力であり、ペテロ本人にはまだ、十分にそのことが理解できていなかったからです。そのことが次の21節から23節のイエス様とペテロとの会話でわかります。21節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とあります。するとペテロはそれを聞いてイエス様をいさめ始めました「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」ペテロの思いとすれば、あれほどの奇蹟をなさる方が、簡単に捕らえられ殺されるなど考えられないことでした。それよりも、イエス様がエルサレムに入り、ローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国を独立させ、イエス様がユダヤの王になることを考えていたのです。イエス様は激しい口調でペテロを非難して言いました。23節「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロのことばは、救い主が人々の罪の身代わりとして十字架で死に復活されて救いを完成させるという神様の計画に逆らう言葉でした。それは、サタンが喜ぶ言葉だったのです。

 イエス様がろばに乗ってエルサレムに入った時、人々は偉大な王、預言者として、イエス様を大歓迎で迎えました。しかし、イエス様が一切、政治的な働きやローマの兵隊を追い出すような行動をとらないので、人々はイエス様に失望して、イエス様から離れてしまいました。それを見た、祭司たちや律法学者たちは、イエス様を捕らえ、裁判にかけ死刑の判決を下し、総督ピラトの所に連れて行き、イエス様を死刑にする許可を得て、十字架に付けて殺してしまったのです。それは、サタンの勝利のように見えましたが、実は、神様の計画でもありました。神様はイエス・キリストを死よりよみがえらせることによって、私たちの救いの計画を完成させてくださったのです。イエス・キリストの処女降誕は、イエス様が神の子であることの証明です。また、イエス様が神の子であるから、イエス様は死より三日目に復活することができたのです。

 イエス・キリストが神の御子であることの証明は、「処女降誕」と「復活」だけです。この処女降誕と復活を信じることができず、以前の私のように、勝手に理解するなら、イエス様を神の御子と信じることは出来ません。イエス様を神の御子と信じない人にとって救いはありません。なぜなら、神の御子の死と復活によって私たちの救いは完成されたからです。イエス様を偉大な預言者。偉大な人物と評価する人はたくさんおられます。しかし、イエス様を私たちと同じ人間として考えるなら、私たちの罪の問題は解決しません。しかし、聖書が私たちに伝えているように、イエス・キリストが神の御子であるならば、大変なことです。神の御子自身が人となり、無実の罪で十字架で死んでくださったのです。それほどまでに、神の御子イエス様が大きな犠牲を払って、私たちの救いの道を備えてくださったのです。それを信じないこと、無視することは神の前で、どれほど大きな罪を犯すことになるのでしょうか。イエス様の有名なことばに、マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とあります。救い(天の御国に入ること)は人間が努力して得る物ではありません。父なる神様が私たちのために大きな犠牲を払って完成されたものです。それゆえ、私たちは幼子のように神様に求めるなら、父なる神様は必ず、私たちに救いの恵みを与えてくださるのです。