「イエスの十字架の死と私たちの罪の贖い」

「イエスの十字架の死と私たちの罪の贖い」 マタイ26:47~66

 いよいよ来週イースターの日を迎えます。イースターは、イエス・キリストが十字架で殺された後、三日目に死より復活されたことをお祝いする特別な日です。約二千年前に十字架に付けられ、殺されたイエス・キリストと、現在の私たちとどのような関係があるのでしょうか。イエス様が十字架でご自分の命を犠牲にされたのは、私たちの罪の身代わりとなるためでした。イエス様がお生まれになられる何千年も前に、神様は、イスラエルの民に、罪の赦しのために動物の犠牲をささげるように命令されました。しかし、それは完全に人間の罪を贖う犠牲とはなりませんでした。それゆえ、人は何度も何度も動物の犠牲をささげなければなりませんでした。イエス・キリストが私たちと同じ人間であったならば、彼も私たちと同じ罪人です。罪ある人間は他の人の罪の身代わりとはなりません。しかし、聖書は、イエス・キリストを神の子と証言しています。それゆえ、神の子であるイエス様の命が支払われて、初めて、私たちの罪の代価となり、私たちの罪の問題は解決されたのです。

 それゆえ、自分の罪を認めない人にとっては、イエス様の十字架の死と復活は何の関係もありません。では、罪とは何でしょうか。神様が6日間で天地を創造された時、この地上に罪は存在しませんでした。神様は最初の人アダムを創造され、エデンの園に住まわせました。そこで神様はアダムに一つの戒めを与えられました。それは、園にあるどの木の実から食べても良いが、善悪の知識の木の実から取って食べてはならない、それを取って食べるなら死ぬ、というものでした。しかし、アダムの妻エバはヘビ(悪魔)に誘惑され、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。また、そばにいた夫アダムもそれを食べてしまいました。しかし、二人はすぐに死ぬことはありませんでしたが、神様の前に罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまいました。その時から、神様と人間との間には罪と言う大きな壁ができ、以前のような神様との親しい関係を人は失ってしまいました。罪とは、新約聖書のギリシャ語でハマルティヤということばが使われています。その意味は「的外れ」という意味で、神様が定めた戒めから外れた行為を指します。神様は聖書を通して、人にご自分の戒めを与えられました。それゆえ、神のことば聖書の戒めから外れた行為全てを罪といいます。罪の基準は聖書にあります。それゆえ、私たちは聖書を知らなければ、罪が何であるのか知ることができないのです。

 私が教会に来始めの頃、自分が罪人であるという自覚はありませんでした。完全に正しい生き方をしてきたわけではありませんが、法律で罰せられる罪を犯したことはありませんでした。それゆえ、礼拝の説教で、すべての人が罪人であり、あなたの罪の身代わりとして、イエス・キリストは十字架で死んでくださったと聞いたとき、私は自分の罪がイエス・キリストを十字架に付けて殺したという言葉に抵抗がありました。イエス・キリストを身代わりにするほど、自分はそんなに悪い人間とは思えなかったからです。

 先程、罪の基準は聖書に記されているとお話しました。イエス様の時代、律法学者パリサイ人と呼ばれる人々は、ユダヤ教の指導者で、旧約聖書を研究し、神様の戒めを学び、人々に神様の戒めを守るように教えていました。彼らは、旧約聖書を研究し、戒めを守り、自分は正しい人間だと誇りをもっていました。しかし、彼らの律法の守り方は不完全でした。イエス様はそのような、傲慢で自分の罪を認めないパリサイ人たちを批判しました。例えば律法学者たちの戒めの守り方は、旧約聖書に「姦淫してはならない。」という戒めがあります。彼らは姦淫の罪を犯した者を厳しく罰しました。しかし、イエス様の旧約聖書の罪の理解は、マタイの福音書5章28節「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で、姦淫を犯したのです。」と言われました。人間が人の罪を裁くのは、実際に罪を犯した場合だけです、しかし、神様は私たちの心の中を見られるお方です。私たちを罰するのは人間ではなく神様です。それゆえ、私たちの罪の基準は神様の前に罪があるかないかです。その基準で私たちの生活を見るなら、私たちはどれだけ多くの罪を毎日、積み重ねていることになるでしょうか。

 私たちが算数を学ぶ場合、学ぶ順番があります。初めにたし算を学び、次に引き算を学びます。そして、掛け算、それから割り算を学びます。いきなり割り算を学ぶことはありません。それは理解できないからです。神様が私たちに救いを教えるためにも同じように順番を考えて、備えてくださいました。神様は、はじめにイスラエルの民に、罪の赦しために動物の犠牲をささげるように命じられました。彼らは、祭司の前に、牛や羊を連れてきて、その場で、血を流し、動物を殺して、祭壇に血を流し、肉を火で焼きました。そうすることによって罪の重さを身をもって教えられたのです。しかし、それは、次の段階の準備にすぎませんでした。動物の命は、人の罪の代価にはなりえなかったからです。次に、神様はご自分のひとり子イエス様を人としてこの世に誕生させました。それは、神のままでは、人の身代わりとして死ぬことができなかったからです。イエス様は、人として死ぬためにマリヤという一人の女性の体を通して誕生されました。それが処女降誕と言う神様の奇蹟です。それによってはじめて、罪の無い完全な神の性質を持った人間が誕生したのです。イエス様は神の性質と人の性質の二つをもってこの地上に誕生されました。それを「二性一人格」と呼びます。命の価値で比べれば、動物の命よりも、人間のいのちの方がはるかに価値があります。そう考えるなら、人間の命よりも、神の命は比べることができないほど尊い命です。その命が、あの十字架の上で犠牲にされたのす。それゆえ、この神の子の命によって、当時の人々の罪の代価は支払われました。また、その命の代価は、今に生きる私たちの代価となり、これから生まれる人のすべての命の代価となったのです。それゆえ、大事なことは、イエス・キリストを誰と信じるかということです。イエス・キリストを私たちと同じ人間と考えるならば、罪の問題は解決しません。唯一、イエス・キリストが神の子だからこそ、私たちの罪の問題は解決されたのです。イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活して、弟子たちが見ている前で、天に昇って行かれました。イエス様の復活は、イエス・キリストが神の子であることの証拠です。世界中にはたくさんの宗教があり、神々が存在しています。しかし、人間の罪の問題を解決するために、人として生まれ、十字架の上で自ら命を犠牲にされた神はイエス・キリストだけです。私たちの罪の問題は、神様の前に大きく積み上げられ、この罪の問題を解決するには神の子の命を犠牲にするほかに人の罪の問題を解決する方法はありませんでした。それゆえ、神は自ら一人子イエス様を犠牲にされ、イエス様は自らご自分の命を犠牲にされたのです。これは、神の愛から出た行為で、人間の知恵では理解できないことです。私たちは、ただ、自分の罪を認め、神様に赦しを求める時、始めて、神様の恵みによって罪の赦しを得ることができるのです。