「神の愛と苦しみ」

「神の愛と苦しみ」 ホセア書1章1節~11節

 先週は父の日でしたので、イエス様のたとえ話「放蕩息子」のお話から、父なる神様の姿について学びました。私たちはこの目で、神様を見ることは出来ません。それで、イエス様はたとえ話で、神様の姿をわかりやすく群衆にお話になられました。また、神様は旧約聖書の時代には、預言者を通してご自身の御心を表されました。私が始めて新旧約聖書を読んだ時、旧約聖書の神様は恐い神様で、新約聖書の神様は愛の神様だと感じました。このように、同じ神様でも、別々の神様のように感じている人々が多くいます。しかし、実はそうではありません。神様は旧約聖書、新約聖書を通して同じ愛の神様です。しかし、私だけではなく、イスラエルの民も神様は罪人を罰する怖い神様と信じていました。それゆえ、罪ある人間が決して近づくことができない、聖い神様だとパリサイ人律法学者たちは人々に教えていたのです。

 今日は預言者ホセアを通して表された神様の愛の姿から学びます。ホセアは北イスラエルを中心に活躍した預言者です。また、その時代は、紀元前790年から686年と考えられています。その時代、北イスラエル王国は、ヤロブアム二世が王となり、貿易が盛んにおこなわれ、人々は物質的に豊かな時代でした。生活が豊かになると、人々の関心はお金儲けに向けられ、人々はお金儲けのために、偶像礼拝(金儲けの神々を求め)が町中にあふれ、人々は、自分たちを愛し、守り助けてくださったイスラエルの神から離れてしまいました。それでも、神様はイスラエルの民を愛し続け、彼らが以前のように自分のもとに帰って来ることを願い続けました。神様はご自分のこの辛い気持ちをイスラエルの民に伝えるために、預言者ホセアに辛い命令を下されました。ホセア書1章2節「主がホセアに語り始めたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』」3節「そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。」とあります。神様は預言者ホセアに姦淫の女性ゴメルをめとるように言われました。ここで、神様が姦淫の女性をめとれと言われたことについていくつかの説があります。(1)ホセアがゴメルをめとる時は、まだ、姦淫の女性ではなかったが、後にゴメルは姦淫の女性となった。(2)ゴメルは宗教的な姦淫の罪を犯していた。偶像礼拝者であった。(3)夢まぼろし出来事。(4)聖書に記録されている通りにホセアは姦淫の女性ゴメルを妻にめとった。多くの聖書解説者が、(4)の聖書通りにこの出来事を捕らえています。なぜ、(1)~(3)のような意見が出るのかというと、神様がそんなひどいことを自分の預言者に命じるわけがないという考えから、そのような意見がでたものと思われます。しかし、神様がホセアに、そのような厳しい命令を与えられたのには意味があります。イスラエルの神様は、アブラハム以来、その子孫を祝福してきました。しかし、それに対して、イスラエルの民はいつも感謝していたわけではありません。神様がイスラエルの民を愛しても、彼らは神様から離れ、偽りの神々に向かい、偶像礼拝を続けました。それでも、神様は預言者を遣わし、彼らがご自分のもとに帰って来るように呼びかけられたのです。ヤロブアム二世の時代も、人々は神様から離れ、偶像礼拝に心を奪われていました。神様はそれを見て、どれほど、心を痛まれたでしょうか。神様はご自分の心の痛みを人々に理解してもらうために、あえて、ホセアに姦淫の女性ゴメルを妻に迎えるように命じられたのです。そして、神様は最初に生まれた子にイズレエルと名を付けるように言われました。イズレエルとは北イスラエルの町の名前で、イスラエルの弓を折るという言葉は、この後北イスラエルの国がアッシリアに滅ぼされることを預言した言葉です。また、神様は二人目に生まれた女の子に「ロ・ルハマ」と名づけるように言いました。その意味は「愛されない」という意味の名でした。また、三人目に男の子が生まれました。神はその子に「ロ・アミ」と名づけるように言いました。その意味は「わたしのたみではない」神様はとても厳しいことばを、その生まれた子に付けるように言われました。しかしそれで、イスラエルの民を捨て去ると言っているわけではありません。7節「しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神。主によって彼らを救う。」10節「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは『あなたがたはわたしの民ではない』と言われたところで、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる。」と言われました。

 また、神様はホセア書3章でこのように言われました。1節「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、他の神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しているように。」そこでホセアは銀15シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取り、彼女に言いました。3節「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男に通じたりしてはいけない。私も、あなたにそうしよう。」と言いたのです。先ほどの「干しぶどうの菓子」は偶像に捧げられたお菓子を意味しています。神様はイスラエルの民を愛しておられました。しかし、イスラエルの民は神様に背を向けて、一生懸命、他の神々を礼拝していたのです。真実に愛している者に裏切られるほどつらいことはありません。神様は心傷つきながらも、イスラエルの民が自分の所に帰って来ることを待ち望んでおられたのです。ホセアもゴメルに裏切られ、ゴメルは子どもを置いて他の男性のところに行き、身を持ち崩し、遊女のような生活をしていたものと思われます。それゆえ、ホセアは彼女を自分のものとするために、銀15シェケルと大麦一ホメル半を支払ってゴメルを買い取ったのです。ホセアはどんな気持ちでゴメルを買い戻したのでしょうか。

 教会にとって十字架は大切な物です。十字架はイエス様の贖いを表しているからです。イエス様は私たちの罪を赦されるためにどれほど大きな苦しみ、痛みを負われたのでしょうか。イエス様は肉体的な痛みと、弟子たちに捨てられるという精神的な苦痛をも背負われました。ある先生は、肉体的な苦しみよりも、愛する弟子たちに裏切られるという精神的な苦痛の方が大きかったのではないかと言われました。また、イエス様は十字架に付けられた時にこのように言われました。ルカの福音書23章34節「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」十字架に釘付けされてもなお、イエス様は、人々の赦しのために祈られました。私たちの救いは、ただで頂けます。努力したり、勉強して理解できたからではありません。しかし、救いはただで頂けますが、そのために、イエス様は苦しみを担い、いのちを犠牲にしてくださいました。私たちの救いのために、それほど大きな犠牲が支払われていることを忘れてはなりません。神様は愛する者に裏切られるという苦しみを持ちながらも、私たちを愛してくださいました。ホセアは、姦淫の女性をめとることによって愛する者に裏切られる辛さを体験しました。また、ホセアは、自分を裏切った女性ゴメルを赦して愛し続けることによって、神様がどれだけの痛みを受けながらも、イスラエルの民を愛し続ける、神の真実の愛を知りました。ホセアは自分の痛みを通して神様の真実の愛を知り、その神様の愛と痛みをイスラエルの民に伝えたのです。