「現実を乗り越えさせる神の力」

「現実を乗り越えさせる神の力」 民数記13章23節~33節

 教会の歴史の中で、カトリック教会は、一般の信徒が聖書を読むことを禁止しました。それは、十分な知識がない者が聖書を読んで勝手に解釈し異端的な教えが広まらないためでした。しかし、1500年代に入り、ルターが登場し宗教改革が行われプロテスタント教会が誕生しました。ルターはその時にいくつかの改革を行いましたが、その中で一番大きな働きとなったのが、聖書をドイツ語に訳し、人々に読ませたことです。当時、印刷機も発明され、ルターによって翻訳されたドイツ語の聖書がたくさん印刷され、多くのドイツ人が自分の国のことばで聖書を読むことができるようになったのです。

 なぜ私たちは聖書を読む必要があるのでしょうか。私たちはこの目で神の姿を見ることができません。それゆえ、神様はご自身がどのようなお方であるのかを分かりやすく伝えるために聖書を与えてくださいました。また、聖書は神様の御心を示す指針であり、神が私たちに示してくださった幸いな道しるべです。もし、聖書がなければ、私たちは人々に伝えられた伝承や儀式でしか神様を知ることは出来なかったでしょう。確かに聖書は、何千年も前に書かれた書物であり、ユダヤ人という少数の民族に与えられた神様の戒めです。それをなぜ、世界中で、また、日本人である私たちが読む必要があるのでしょうか。神様はアブラハムを選び、その子孫であるユダヤ人に神様のことば旧約聖書を委ねました。しかし、神様の御心は、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人を通して世界中の人々に神様のことばを伝えることだったのです。

 初めに、旧約聖書の民数記13章を読んでいただきました。この個所は、イスラエルの民がモーセによってエジプトから助け出され、荒野を通って、神様の約束の地カナンの地に近づいた時の出来事です。ここで、神様はモーセを通して、12部族からそれぞれ一名ずつの代表を選び、12名でカナンの地を探らせるように命じました。40日をへて、12名が帰って来て、人々へ報告をしました。そのうちの10名は否定的な意見で、カナン人たちは大きな国民で、高い城壁があり、私たちが彼らと戦っても勝つことは出来ないという報告でした。しかし、そのうちの一人、カレブは人々にこのように言いました。30節「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」しかし、人々は10人の意見に耳を傾け、エジプトに帰ろうと言い出したのです。そこで今度はもう一人のヨシュアが口を開きました。7節~9節「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々をおそれてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」否定的な意見を述べた10名とヨシュアとカレブは同じ状況を見ました。その光景は、10名の意見のように、民は背が高く、高い城壁に囲まれたところでした。しかし、同じ状況でもヨシュアとカレブには、神様の御手が見えていたのです。神様はなぜ、12名の偵察隊を派遣するようにモーセに命じたのでしょうか。ここから、私たちが何かをする場合、状況を調べることの大切さを教えています。しかし、神様がこの12名に期待したことは、現状を理解するだけではなく、それを超えた神の力が自分たちの内にあることを知ることではなかったでしょうか。それに気が付いたのはヨシュアとカレブだけでした。他の10名は現状を見ることだけで終わってしまったのです。この出来事は、過去の歴史を教えているだけではありません。今、私たちの現実の問題を指しています。私たちは、10名のように現実を見て落胆する者でしょうか。それとも、ヨシュアとカレブのように現実の世界の中に神の御手を見て前に進むものでしょうか。聖書を読む目的は、過去の歴史を学ぶだけではありません。歴史を通して学んだ神の力を自ら体験するためです。私たちが困難な状況に出くわしたとき、その状況を理解するだけではなく、そこに働く神の力を私たちも体験することができるのです。

 旧約聖書サムエル記17章の出来事も同じことを私たちに教えています。この場面の困難は3メートル近い大男ゴリアテです。イスラエルの兵士は、そのゴリアテの姿を見ておそれ、誰もゴリアテに戦いを挑むものはいませんでした。それを見た、少年ダビデは、自ら、自分がゴリアテと戦いますと王様に申し出たのです。その時、王様も大人の兵士たちも誰も、ダビデがゴリアテに勝てるとは思いませんでした。これも、現状から見た結論です。しかし、ダビデはこのように言ってゴリアテに向かいました。サムエル記第一17章45節~47節「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かってくるが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体からはなし、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることをしるであろう。」そう言って、ダビデは石投げで、ゴリアテの額に石をぶつけて、ゴリアテを倒し、馬乗りになってゴリアテの剣で彼の首を切り落としてしまったのです。王や大人の兵士たちは、ゴリアテの体の大きさや彼の戦歴を聞いて、恐れおののき誰も彼の前に立つことができませんでした。彼らが見たのも現実の姿です。しかし、ダビデに見えていたのは神様の御手でした。神の力を知るダビデにとって、ゴリアテの体の大きさや戦歴はたいした問題ではありませんでした。それこそが、ダビデの信仰だったのです。

 ヨシュアもカレブもダビデにとっても、現実は大きな壁のようであり、不可能な状況でした。しかし、彼らには神様の御手が見えていました。私たちの前にある問題はどんなに大きなものでしょうか。しかし、神様より大きな問題などこの世に存在するでしょうか。私たちが神様の力をどのように信じるかです。その私たちの信仰を強めるのが聖書です。その他にも、ギデオンやダニエルなども旧約聖書に登場します。彼らの前にも大きな現実が立ちふさがっていました。彼らはどのようにして、その大きな問題を乗り越えることができたでしょうか。それは、ヨシュアやカレブ、ダビデと同じです。私たちが現実を超えた神の御手を信じる時、恐れは消え去り、解決の道が開かれるのです。聖書に登場する神は、過去の神ではありません。今、現に働かれている神様です。私たちは聖書に表された神の姿を見る時、もう一度、神の力を信じることができます。聖書は私たちに神様を信じる力を与えてくれます。聖書の中に、神様の約束の言葉がいくつかあります。それに目を留める時、私たちの怖れは消え去り、一歩前に踏み出すことができるのです。