「人はパンだけで生きるのではなく」

「人はパンだけで生きるのではなく」 マタイの福音書4章1節~4節

 マタイの福音書3章で、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられると16節「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに自ら上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」とあります。また、17節「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」とあります。この時から、イエス様は天の父なる神様から、救い主としての召命を受けられました。この時、イエス様は30歳であったと言われています。

 この後、イエス様は悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野へと上って行かれました。この出来事は、御霊の導きによることなので、神様の御心と言えます。イエス様は公の宣教の働きをする前に、悪魔の試みを退けなければならなかったのです。この時、イエス様は40日の断食の後で、大変お腹がすいていました。悪魔は、その空腹のイエス様に3節「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言われたのです。この試みは、ただ単に、あなたは神の子だから神の力によって石をパンに変えて食べなさい。という単純な試みではありません。悪魔の誘惑の意味は、「あなたは神の子だから、その力によって自分のために石をパンに変えて空腹を満たしなさい。」と言う誘惑なのです。ここで、「自分のために」ということが大切です。イエス様が人として誕生されたのは、自分が王になるため、世界を支配するためではありません。神様の御心に従っていのちを犠牲にするためです。悪魔の計画は、その神様の計画から離れて、自分のため(自分の欲望のために)生きなさいと言う誘惑だったのです。それゆえ、イエス様は、その誘惑に対して、旧約聖書の申命記8章3節のことばで悪魔の誘惑を退けられました。マタイの福音書4章4節「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」この申命記のことばは、どのような状況によって語られたことばなのでしょうか。

 申命記は、イスラエルの民がカナンの地に近づいた時、モーセが最後を迎えるにあたって、イスラエルの民に対して最後に語った遺言の書と言われています。特に8章は、イスラエルの民が荒野で40年歩いた道を覚えなければならない、もし、忘れたならば、たとえカナンの地を征服したとしても、あなたがたは高慢になり、神様から離れ、たちまち神によって滅ぼされてしまうだろうという警告の個所なのです。

 神様が最初に造られたアダムとエバも悪魔の誘惑を受けました。アダムは創世記の2章で、神様に善悪の知識の実を食べてはならない、それを食べるその時、あなたは必ず死ぬと戒めを与えられていました。しかし、ヘビ(悪魔)は、神様の戒めを否定し、創世記3章5節「あなたがたがそれ(善悪の知識の実)を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」とエバを誘惑しました。二人の心を引いた言葉は「神のようになり」という言葉です。今まで二人は、神様の守りによって生活してきました。ここで、「神のようになり」とは、神から離れて独立すること、また、神と対等になることを意味しています。二人は、神から独立し、自分の好きな人生を歩むことを願ったのです。しかし、実際に二人が、善悪の知識の木の実を食べると、二人の目は開かれましたが、お互いが裸なのがわかり、神様の声を聞いて木の間に身を隠してしまいました。二人は神様の前に罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまったのです。この罪のゆえに、二人は神様の守りを失い、自分で耕し食物を得、外敵から自分で身を守らなければならない者になってしまったのです。

 荒野での40年は、決して苦しみだけではありませんでした。神様は食べ物がない荒野において、マナという食べ物を与え、イスラエルの民を40年も養ってくださったのです。申命記8章4節「この四十年の間、あなたがたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった。」とあります。イスラエルの民はこの40年を通して自分たちが神によって養われたこと、いわば、神によって生かされていることを、学ばなければならなかったのです。8章のもう一つの大切なことばは、11節~20節のことばです。ここでは、イスラエルの民が満ち足りて、高慢になり、神様を忘れることがないように戒めています。

 マタイの福音書4章に戻って。イエス様の力からすれば、石をパンに変えることや、全世界を支配することもできたでしょう。もし、イエス様が悪魔の誘惑にしたがって、自分の要求(お腹を満たすために)石をパンに変えて、自分のお腹を満たしたとすれば、自分のお腹を満たすために、石をパンに変えたとすれば、もう、イエス様は神様のために生きているのではなく、自分のために生きることになり、それは、神様と分離することになります。また、それは、神様の救いの計画を台無しにすることになるのです。

 そこでイエス様は、悪魔に対して、4節「人はパンだけでいきるのではなく」とは、「人は自分の欲望を満たすために生きているのではなく。」「神の口から出る一つ一つのことばによる。」とは、「神様が定められた戒めに従って生きるべきである。」と言われたのです。悪魔の誘惑は、神様から私たちを引き離し、自分の欲望に従って生きるように誘惑することです。実際、イスラエルの民は、カナンの地を征服し、生活が豊かになると、神様から離れてしまいました。そこで、神様はイスラエルの民をもう一度、自分の方に向かせるために、周りの国々を通して、イスラエルの民を苦しめました。そして、彼らが神様に助けを求めると、神様はイスラエルの民を助けるために「士師(指導者)」を与え、イスラエルの民を外敵から守りました。しかし、その士師(指導者)が亡くなると、また、彼らは神様から離れ、自分の欲望を満たすために、自分に都合の良い神々を求め、偶像を礼拝するようになってしまったのです。特に士師記の時代はそのことの、繰り返しとなり、最後には士師記21章の25節「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」とあります。彼らは神様の基準を失い、自分にとって都合の良いことだけを善とし、自己中心的な生き方をするようになってしまったのです。

 初めの人、アダムとエバは、悪魔の誘惑に負けてしまい、罪を犯し、神様から退けられてしまいました。しかし、イエス様は、旧約聖書の申命記のことばを通して悪魔の誘惑を退けられたのです。それで、悪魔が完全に引き下がったわけではありません。悪魔は、何度も何度も、イエス様を神様から引き離そうとしましたが、イエス様は最後まで、神様のことばに従い、十字架の死にも従い、私たちの救いを完成し、死より復活して天に昇って行かれたのです。今度は、悪魔は同じように私たちを誘惑してきます。私たちが、豊かさや成功や快楽を求めるなら、すぐに、私たちは神様から引き離されてしまうでしょう。イエス様はあえて、悪魔の誘惑を退けるために、神様のことばである聖書のことばを用いられました。それは、私たちのためです。私たちがもし、自分の知恵や力で悪魔の誘惑を退けようとするなら、私たちはたちまち、悪魔に打ち負かされてしまうでしょう。しかし、私たちが神様のことばである聖書のことばに従って生きるならば、悪魔も私たちに手出しができないのです。これが、イエス様が悪魔の誘惑を受けられた理由であり、イエス様が聖書のことばで悪魔を退けられた理由なのです。