「人の罪を赦される神の子イエス」

「人の罪を赦される神の子イエス」 ヨハネの福音書8章1節~11節

 先週はサマリヤの女性から学びました。イエス様は生まれ故郷のガリラヤ地方に行く途中に、普段はユダヤ人が立ち寄らないサマリヤの町を訪れました。それは、一人の心傷ついた女性の心に光を差し込むためでした。彼女はイエス様との会話を通して、イエス様が旧約聖書に約束されたメシヤであることを信じました。そして、聖書には記されていませんが、彼女の人生は罪にまみれた暗闇の生活から抜け出し、神を信じる者が歩む、光の人生へと変えられたのではないかと思われます。

 今日聖書に登場するのは、「姦淫の現場で捕らえられた女性です。」彼女は、イエス様を罠にかけて訴えるために捕らえられた被害者でもあります。イエス様の人気がどんどん高まり、律法学者とパリサイ人たちは、イエス様に危機感を持つようになりました。彼らは、何とかイエス様を罪に定め、イエス様の働きを無きものにしようと計画したのです。そのために選ばれたのがこの女性です。彼女はこの町でもいかがわしいと、うわさされる女性であったかもしれません。律法学者とパリサイ人たちは、イエス様を罪に定めるために、彼女を見張り、姦淫の現行犯で捕らえようと待ち構えていたのではないでしょうか。そして、律法学者たちは、彼女の姦淫の現場を押さえ、有無を言わさず、イエス様の前に引き出し、イエス様に難問を突き付けたのです。ヨハネの福音書8章4節「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています。ところで、あなたは何といわれますか。」確かに、モーセは十戒の中で「姦淫してはならない。」と戒めています。また、レビ記や申命記では、二人が姦淫している現場で捕らえられたなら、石で打って殺すように命じています。律法学者パリサイ人たちの目的は、イエス様がこの女性を赦すと言えば、ユダヤ教の律法に背いたとして、ユダヤ教の宗教裁判で裁くことができる。また、石打にすべきであると言えば、当時のユダヤの国はローマ政府に支配されていました。そして、ローマ政府は、ユダヤ人に公に人を死刑にすることを禁じていました。当時死刑の判決を下すのは、ローマ政府だけだったのです。それゆえ、イエス様が彼女を死刑にすべきだと発言すれば、律法学者パリサイ人たちは、ローマ政府にイエス様を訴え、ローマ政府の裁判でイエス様を罪に定めようと計画したのです。どちらを答えても、イエス様を罪人として訴えるための巧妙に仕組まれたわなでした。

 しかし、イエス様は何も発言されず、地面に何かを書いていたとあります。イエス様が地面に何を書かれていたのかが重要ではありません。イエス様は律法学者パリサイ人たちの悪意のある計画に気付いておられたので、あえて、あなたがたとは、関係を持ちたくはないという気持ちを、そのような姿で表されたのではないかと思います。しかし、彼らが問い続けてやめなかったので、イエス様は、身を起こされて言われました。7節「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そうすると、何が起こったでしょうか。9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」とあります。イエス様の周りで、何が起こったのでしょうか。イエス様のことばに心刺され、だれも、彼女に石を投げる者もなく、一人一人が去って行ったのです。律法学者パリサイ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫だから罪はないと人々に教えていました。しかし、彼らもイエス様のことばに心刺され、石を投げることができずに、イエス様の前から立ち去ってしまったのです。もし、私たちがこの場にいたとしたら、私たちはどのような行動を取ったでしょうか。私たちも群衆と同じように、自分の罪を思い出し、その場を立ち去ったのではないでしょうか。そういう意味では、私たちもこの女性と同じ、神の前に裁かれる者です。私たちもこの群衆と同じように、立ち去る罪人でしかないのです。

 次に、イエス様は彼女に言いました。10節「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」彼女はイエス様に言いました。11節「だれもいません。」そこでイエス様は彼女に言われました。11節「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」このことばを聞いて、彼女はどう思ったでしょうか。彼女は、姦淫の現場で捕らえられた時から、死を覚悟していたのではないでしょうか。ところが、自分に石を投げて殺そうとしていた群衆は去り、イエス様自身も、私を罪に定めないと言われたのです。彼女は、初め不思議な気持ちに襲われたのではないでしょうか。それから、次第に救われた(助けられた)という喜びを感じ、喜んで自宅に帰ったのではないでしょうか。また、イエス様は「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。今まで彼女は自堕落な生活を過ごしてきました。彼女は、イエス様の赦しのことばを聞いて、罪の生活から抜け出し、新しい生活を始めたのではないかと思います。

 罪ある者は、同じ罪人を赦すことは出来ません。そういう意味では、イエス様が自ら言われた。「わたしもあなたを罪にさだめない。」という言葉は、自分には、人を罪に定める権威と赦す権威があることを示されたことばです。イエス様が処女のマリヤから生まれたということは、罪の無い神の子が肉体を持って私たちの世界に生まれてくださったということです。また、イエス様が罪の無い神の子ゆえに、はじめて、イエス様の十字架の死が私たちの身代わりの死となり、私たちの救いの完成になったのです。私たちの罪が赦されるということは特別なことです。イエス様は人を罪に定めるために生まれたのではなく、私たちを罪から救うために人として生まれてくださいました。また、そのために、十字架の上で死んでくださいました。「贖う」という言葉が聖書にはたくさん登場しますが、{贖う}という意味は、代価を払って買い取ることを言います。私たちは自分が救われるために、特別な努力をする必要はありません。しかし、イエス様は、私たちを救うために、ご自身のいのちを犠牲にしてくださいました。そこに、救いの尊さがあります。イエス様は彼女に「わたしもあなたを罪にさだめない。」と言われました。そのことばは、私たちに対することばでもあります。イエス様の十字架の救いは、姦淫の罪を犯した女性を救う力がありました。また、イエス様の十字架の救いは、すべての人の罪を赦すことができるほど大きな赦しです。この十字架の贖いに、あなたの罪を含まれています。今日、私たちはもう一度、イエス様がなしてくださった。大きな御業「十字架による贖い」に感謝したいと思います。