「悲しみの預言者エレミヤ」

「悲しみの預言者エレミヤ」 エレミヤ書1章1節~8節

 旧約聖書において、「預言者」と呼ばれるようになったのはサムエルからです。それまでは、「予見者」と呼ばれていました。「預言者」と「予見者」の違いは、「預言者」が神様のことばを預かって語る者に対し、「予見者」は未来を予測する者という違いがありました。

 サムエルの母ハンナは子を産むことができず苦しんでいました。そこで、ハンナは子どもが与えられるように神様に祈りました。その時に、ハンナは特別な誓願を立て、生まれた子供が神様の働き人となるように祈ったのです。そして生まれたのがサムエルです。ハンナは神様との約束通り、幼子を祭司エリに預けました。サムエルは神様に仕える者として、祭司エリの下で、訓練を受けることになったのです。サムエルが成長し少年になった時、神様はサムエルの名を呼ばれました。そして、エリの家についての預言を授けたのです。その預言とは、祭司エリの家の滅亡についての神様のことばでした。翌朝、祭司エリは、神様がサムエルに何を語って下さったかを尋ねました。サムエルは、その内容が祭司エリの家の滅亡についての話だったので、祭司エリに話すことをためらいました。しかし、祭司エリが、サムエルに正直に話すようにうながしたので、サムエルは、神様から聞いた通りを祭司エリに話しました。それを聞いて祭司エリは、「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますいうに。」とサムエルに告げたのです。その後、神様のことば通り、イスラエルの国がペリシテの国と戦った時、祭司エリの二人の息子は戦死し、契約の箱が奪われてしまいました。また、それを聞いた祭司エリは、すわっていた椅子から仰向けに倒れ、首の骨を折って死んでしまったのです。預言者とは、神様から預かったことばを人々に告げる責任があります。時としてそれは、人々に喜ばれない言葉もありました。また、預言者は迫害を受けながらも、神様のことばを人々に告げなければならない、重い責任を神様から与えられていたのです。

 エレミヤが預言者として神様から召命を受けたのは、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされて、約80年後の時代です。その時、エレミヤは二十歳ぐらいと考えられます。神様はこのエレミヤを、生まれる前から預言者と定めていたと語りました。神様はこのエレミヤを通して南ユダ王国を危機的状況から救おうとされたのです。この時、南ユダ王国はバビロニヤの脅威にさらされていました。多くの預言者たちが、王と民衆の支持を得ようと、この国は滅ぼされることはない。この国は神様によって守られると預言していました。そんな中、エレミヤに神様から与えられたことばは、南ユダの人々が悔い改めて、神様のことばに従わなければ、この国がバビロニヤに滅ぼされるという厳しい神様のことばでした。これを聞いて、祭司や民衆はエレミヤを捕らえ死刑にすべきだと激しくエレミヤを非難しました。エレミヤは何とか人々が悔い改め神様の裁きが起こらないように、神様のことばを伝えましたが、伝えれば伝えるほど、エレミヤは人々から憎まれました。人々は、我々はアブラハムの子孫で、イスラエルの国は神様に特別に愛されている国だから大丈夫だと、偽預言者たちのことばに耳を傾け、エレミヤのことばに聞き従おうとはしませんでした。エレミヤにとっても、自分の国の滅亡を語る事は辛い事だったでしょう。しかし、エレミヤは神様に選ばれた預言者として、神様から与えられた言葉を、その通り語らなければなりませんでした。たとえ人から憎まれても、迫害され、投獄されても。結局、南ユダの人々は、エレミヤのことばに聞き従うことなく、神様の裁きによってバビロニヤに滅ぼされ、王族、貴族、技術者が捕囚として、バビロニヤに連れて行かれてしまいました。

 今年も終戦記念日が近づきました。私たちは同じ過ちを犯さないためにも、この日を特別な日として、心に刻み、戦争の恐ろしさ、戦争の愚かさに目と耳を向けなければなりません。

 以前、千葉教会の山中先生より「嵐の中の牧師たち」という本をいただきました。この本の著者、辻宣道牧師は、山中先生の奥様のお父さんです。この本の中で、戦時中の教会がどうであったかが詳しく書かれています。その中で、多くの教会が天皇を神として崇めることを強要され屈服しました。また、ホーリネスのグループは、再臨の主を信じっていたので、多くの牧師が捕らえられ、獄死しました。辻先生のお父さんも投獄され、獄死した仲間です。そのお父さんの遺体をお母さんと少年の辻先生が二人で、刑務所に受け取りに行った話が書かれています。

 また、今の時代、いつ戦争の時代が来るかわかりません。そのために、私たちはクリスチャンとして、教会はどうであったのか、どうあるべきであったのか考えなければなりません。戦争は過去の歴史ではなく、今後とも日本において現実となりえる出来事です。その時、私たちは、また、教会はどうあるべきでしょうか。日本国民が一つとなり、戦争を正義と振りかざす時、私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。エレミヤの時代、多くの人々が、自分たちは神の国だから滅ぼされることはないという、偽預言者たちのことばを信じました。そして、それに反して、悔い改めなければ、バビロニヤによって滅ぼされると、神様のことばを語った預言者エレミヤを迫害し投獄までしました。私たちはエレミヤのように、国民の全てに憎まれても、神様のことばを守ることができているでしょうようか。迫害の中にあっても、唯一の神だけを真の神として、信仰を持ち続けることができるでしょうか。

 また、私たちは確実に世の終わりに近づいています。聖書は世の終わりの前兆の一つとして、各地で戦争が起こることを記しています。また、聖書は世の終わりの後に訪れる天の御国についても記しています。私たちは世の終わりを待ち望むものではなく、新しい天地、天の御国を待ち望む者です。この世は何時か終わりが来ます。そして、新しい世界が始まるのです。ヨハネの黙示録21章1節~4節「また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。その時私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」天の御国は、人間が考え出した空想や想像ではありません。神様の確かな約束です。私たちはその神様の約束を信じる時、恐れや苦しみを乗り越えて、その先にある神の御国を待ち望むことができるのです。