「神の戒めと人が考えた戒め」

「神の戒めと人が考えた戒め」 マタイの福音書5章21節~48節

 イエス様が山の上で群衆に教えられた山上の説教から学びます。特に5章21節からは、律法学者たちが教える神様の戒めと、イエス様が教える神様の戒めとの違いについて学びます。

1、人を殺してはならない。(マタイの福音書5章21節~26節)

 旧約聖書の出エジプト記で、神様はモーセを通してイスラエルの民に十の戒めを与えられました。それを十戒と呼びます。マタイの福音書5章21節で、イエス様が取り上げられた戒めは、この十戒の六番目の戒め「殺してはならないです。」です。律法学者たちはこの戒めに対して「人を殺す者はさばきを受けなければならない。」という戒めを付け加えて教えていました。

 それに対してイエス様の教えは、22節「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」と言われました。人を殺すことと兄弟に腹を立てることが同じ罪であり、同じ裁きを受けなければならないと教えられたのです。さらにそれだけではなく、兄弟に向かって「能なし。」「ばか者。」と言うことも、最高議会で裁かれる、または、燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれる罪だと言われたのです。

 律法学者たちの「殺してはならない。」の解釈は、人を殺す者はさばきを受けなければならないでした。それゆえ、人を殺さなければ、人を憎んでも罪にはなりません。それは、あくまでも、殺した者に対する裁き、刑罰であり、心の中で人がどう思おうが、関係ありません。人を殺したいほど憎んでも、律法学者の解釈では、その人を罪に定めることは出来ないのです。

 しかし、イエス様が問題としたのは、人を殺すという行為よりも、その動機、心の中を問題としています。考えてみると、人を殺すということには、動機があります。心の中に憎しみや妬み怒りが、人を殺す動機となります。旧約聖書の創世記4章に、兄カインが弟アベルを殺したことが記されています。この出来事が、人類最初の殺人です。その動機は、兄カインが弟アベルに嫉妬し怒りを覚えたことにあります。神様はカインにその怒りを治めるように諭しますが、カインはアベルを野に誘い出して殺してしまいました。イエス様はこの「殺してはならない」という神様の戒めに対し、問題とされたのは人の「心の中、動機」です。私たちは人の心の中を見ることは出来ません。それゆえ、人は心の中の罪を裁くことは出来ません。しかし、神様は私たちの心の中をご存知です。それゆえ、神様の基準で考えると、殺人も兄弟に腹を立てることも、脳なし、ばか者と人を罵倒することも、神の前では同じ罪に定められると教えられたのです。

2、姦淫をしてはならない(マタイの福音書5章27節~32節)

 「姦淫をしてはならない。」は先ほどの十戒の七番目の戒めです。律法学者たちは、文字通りに、夫婦以外の者と性的関係を持つことを禁じていました。姦淫の罪は重く、現行犯で捕らえられた場合、男女とも、石を投げられて殺されるという「石投げ」という死刑の刑罰が下されることになっています。しかし、それも現行犯でなければ罪に定めることはできません。まして、心の中で、情欲を抱いても、罪に定められることはありませんでした。しかし、イエス様の教えは、この「情欲」を抱くことも罪だと言われたのです。28節「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。私たちは心の中までコントロールすることはできません。男性であるならば誰でも、情欲を抱くことはあったのではないかと思います。人は、人の心の中を見ることは出来ません。しかし、神様は私たちの心の中を見られるお方です。十戒は神様と人との約束(契約)です。律法学者たちは神様の戒めを自分達が戒めを守れるように、表面的な解釈で終わっていました。しかし、イエス様は神の子です。イエス様は神様の目で戒めを理解し、人々に神の目線で戒めを教えられたのです。

 前回、お金持ちの青年のお話をしました。この青年は永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いのかについてイエス様に質問しました。イエス様は彼に、戒めを守りなさいと言われました。青年はイエス様にどの戒めですかと尋ねました。イエス様は先ほどの十戒の後半「殺してはならない、姦淫をしてはならない・・・」と言われました。この青年はそれを聞いて、「そのようなことはみな守っております。」とはっきり答えました。しかし、それは、律法学者たちの戒めの範囲であり、イエス様の基準で守っていると答えたわけではありません。人は、どのようにして心の中をコントロールすることができるでしょうか。また、私たちは、アダムの子孫として、罪を犯しやすい性質「原罪」を持って生まれてきてしまいます。私たちは、だれもイエス様が教えるような基準で神様の戒めを守ることができない者です。それでは、神様はなぜ、私たちが守れないような戒めを与えられたのでしょうか。新約聖書のギリシャ語では、罪という単語に、ハマルティヤという言葉が使われています。その意味は「的外れ」という意味で、神様が定めた戒めから外れることを意味していました。パウロは神が戒めを与えられたのは、私たちに「罪を教えるため」と教えています。確かに、私たちは罪が何であるかを知らなければ、罪を知ることは出来ません。私たちは、戒めがあって初めて、罪が何であるかを知ることができます。それゆえ、戒めは、私たちが守るために与えられたのではなく、私たちが戒めを守れない罪人であることを教えるためにあたえられたものです。しかし、律法学者たちは、その神様の戒めを、人間が守れる戒めへと変えてしまい、彼らは一生懸命その戒めを守ろうと努力していたのです。神様の御心は、私たちが戒めを守れない罪人であることを認め、イエス・キリストによる救いを受け取ることでした。しかし、律法学者たちは、そのイエス・キリストを捕らえ、十字架に付けて殺してしまったのです。

 イエス様が言われるように、戒めは悪い物ではありません。しかし、律法学者たちは、何とか自分たちが努力してその戒めを守れるように、自分たちで戒めを解釈し、自分たちが守り、人々にも守るようにと、強制したのです。しかし、イエス様の教えは、神様の教えであり、人間が守れるようなレベルではありませんでした。それゆえ、イエス様は自ら十字架の上でいのちを犠牲にされて、私たちに救いの道を開いてくださったのです。世界中に色々な宗教があります。しかし、この罪の問題を解決した宗教はありません。キリスト教だけが、イエス様(神)がご自分のいのちを犠牲にされ罪の問題を解決してくださった唯一の教えです。私たちはそんなすばらしい救いを神様より頂いた者です。そのことを心から喜び、また誇りに思いたいと思います。