「神の愛と人の愛」

「神の愛と人の愛」 マタイの福音書5章33節~48節

 ある方が、世界中の人々に「あなたの好きなことばは何ですか。」というアンケートを行った結果、「愛」という言葉が一番多かったということを聞いたことがあります。日本語では「愛」英語では「ラブ」フランス語では「アムール」という言葉が使われるそうです。新約聖書のギリシャ語では、愛という意味の言葉が三種類あります。エロス、フィレオー、アガペーです。エロスは「男女の愛」に使われ、フィレオーは「家族や友人」に対する愛に使われます。そして、アガペーは「神様」の愛に使われます。

 新約聖書のヨハネの福音書21章で、復活されたイエス様が、自分を裏切ったペテロに対して、15節「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」と声をかけました。この時に使われた言葉が「アガパオー」ということばです。アガペーの変化形です。これに対してペテロはイエス様に「はい、主よ。私があなたを愛することはあなたがご存知です。」と答えますが、このときペテロが使った言葉が「フィレオー」ということばでした。二度目もイエス様はペテロに「アガパオー」という言葉を使いますが、ペテロは「フィレオー」と答えています。三度目にイエス様は「フィレオー」という言葉でペテロに話しかけ、ペテロも「フィレオー」という言葉で答えています。この個所は有名な個所で、様々な解釈がされています。私自身も何度も説教をしたことがあります。私はこの場面でイエス様のへりくだった姿を想像します。イエス様は神、神の子ですから、アガペーという言葉を使いました。しかし、イエス様を裏切ったペテロは決してイエス様のようにアガペーと言う言葉を使うことができずに、フィレオーという言葉で答えた。三度目にイエス様はペテロの気持ちを考えて、自らへりくだり、ペテロに合わせて、フィレオーという言葉で、私を愛しますかと声をかけてくださり、ペテロもフィレオーという言葉で答えたと考えています。

 では、神様の愛とはどのような愛でしょうか。神様の愛とは、見返りを求めない愛であり、一方的に与える愛だと言えます。そのわかりやすい例がイエス様の十字架の姿です。イエス様は罪を犯すことがありませんでしたから、十字架で死ぬ必要はありませんでした。しかし、私たちを罪から救うため(贖うため)に十字架の上で死んでくださいました。イエス様は私たちを救うために一方的にご自分のいのちを犠牲にされました。それが、神様の愛で、その愛のしるしとして教会では十字架を掲げています。

 先程お読みしましたマタイの福音書5章33節から48節で、イエス様は三つの戒めに対してご自分の意見を述べています。

1、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」(33節~37節)

 これに対してイエス様は、34節~37節「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上は悪いことです。」と言われました。当時の状況を調べると、律法学者たちは、二種類の誓いを立てていたようです。一つは、神様の名を使って誓いをすること、もう一つは、天や地、エルサレムなどを指して誓いをすること。このうち、神様の名によって誓ったことは守らなければならないが、天や地、エルサレムを指して誓ったことは、必ずしも守らなくても良いと言われていました。それゆえ、彼らは、誓いが守れなかった場合、それは、天を指して誓ったこと、また、地やエルサレムを指して誓ったことだと言って言い訳をすることが多かったようです。それゆえ、イエス様は、天は神の御座であり、地は神の足台であり、エルサレムは偉大な王の都だから、それらの誓いも守らなければならない、もっと言えば、守れないような誓いをしないようにと戒められたのです。

2、「目には目で歯には歯で。」(38節~42節)

 この戒めは出エジプト記21章24節25節にあります。「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどのはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」とあります。この戒めは決して報復や仕返しを認めた戒めではありません。元々の目的は、仕返しや報復を戒める戒めです。それは、目を傷つけられた者が報復として目以上に相手の命を取らないように戒めた教えです。それゆえ、歯を折られた者は、相手の歯だけを折ることが許された戒めで、仕返しがそれ以上に大きくならないように戒められていたのです。それに対してイエス様は、39節「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬もむけなさい。」40節「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」41節「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオンを行きなさい。」42節「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」と言われました。イエス様が言われたことばで共通していることは、自分の権利を放棄し、相手の要求以上のものを与える所にあります。これこそが、イエス様の十字架の姿であり、神様の愛です。イエス様が私たちに求めている愛とは、自分中心の愛ではなく、相手に自分のいのちさえ与える神様の愛、アガペーの愛であることを示されたのです。

3、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」(42節~48節)

 「自分の隣人を愛し」という戒めはレビ記19章18節にあります。しかし、「自分の敵を憎め」という戒めはありません。それゆえ、律法学者たちが旧約聖書の申命記の中で。異邦人に対して使われていた個所を、レビ記19章18節に付け加えたものと考えられます。それゆえ、彼らが言う「自分の隣人」とは、同じ国民を意味し、「自分の敵」とは異邦人と言われる外国人を指していました。ここでイエス様は44節「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。はたして、私たちはイエス様が求められるように、「敵を愛し、迫害する者のために祈れるでしょうか。」先週学んだ神様の戒めの基準が高くて私たちの力では守れないレベルだというお話をしました。今日の個所も、イエス様が私たちに求めるレベルは非常に高いものです。それゆえ、私たちは神様の助けが必要であるし、祈りが必要となるのです。律法学者たちは神様の戒めを自分達が守れるレベルへと引き下げ、それを一生懸命守り、人々に戒めを守っていると自慢していました。しかし、イエス様が教える神様の戒めは、彼らよりもはるかに高く、人間の力では守れない戒めでした。それゆえ、イエス様は自ら自分の命を犠牲にされ、また、私たちに聖霊様を与えてくださったのです。神様の愛と人間の愛とは大きな違いがあります。神様が私たちに求める愛はアガペーの愛、神の愛です。私たちは十字架を仰ぎつつ、少しでも、イエス様の愛に近づきたいと思います。