「人として生まれた神の御子キリスト」

「人として生まれた神の御子キリスト」 ピリピ2章6節~8節

先週は、父なる神様を中心にクリスマスの意味を考えました。父なる神様は私たちを救うために、ご自身の一番大切なひとり子イエス様を犠牲にしてくださいました。また、それが神様の愛の表れであったこと学びました。

今日は、イエス様を中心に、神の子が人として生まれたことに、どのような意味があるのかについて学びます。ピリピ人への手紙2章6節からをお読みしますと。6節7節「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とあります。イエス様は、父なる神様が天地全てを創造される時、父なる神様とともに栄光の姿で存在しておりました。イエス様が人としてお生まれになられたということは、その栄光の姿を捨てられたということです。また、それは、ご自分を無にするに等しい行為でした。また、イエス様は神の子として、仕えられるお方であるのもかかわらず、人間として生まれることによって、神に仕える者として誕生されたということです。

8節「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。」とあります。洗礼準備会において、イエス様の人としての性質を聖書から学びます。(1)マタイの福音書4章2節「そして、四十日四十夜断食した後で、空腹を覚えられた。」(2)ヨハネの福音書4章6節「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰を下ろしておられた。」(3)マルコの福音書4章38節「ところがイエスだけは、とも(船のへさき)のほうで、枕をして眠っておられた。」(4)ヨハネの福音書11章35節「イエスは涙を流された。」このようなイエス様の姿からどのようなものを感じますかと言う質問です。答えは、イエス様は私たち人と全く同じになられたです。神の子の姿であれば、空腹を覚えることもなく、疲れることもありませんでした。また、眠ることも涙を流すこともありませんでした。しかし、イエス様は神の姿を捨てて、私たちと同じ人になられました。そして、空腹を覚え、疲れを感じ、眠くなられて、涙を流されるまでに悲しみを感じられたのです。これが、ご自分を無にすることであり、また、自分を卑しくすることなのです。ある先生が、神がその御姿を捨てて人となるということは、人が豚と同じように扱われることに等しいと言われました。私たちが豚小屋の中で、豚と同じように扱わたら、これほどつらいことはありません。だれが、そのような苦しみに耐えることが出来るでしょう。

ヴィクトル・E・フランクルという心理学者が、ドイツの強制収容所で体験したことを本にしました。それが「夜と霧」という書物です。それを読むと、いかに収容所の中において非人間的な扱いを受けたかが書かれてあります。その中で、彼は最後まで生き残って解放されるわけですが、その中での生活は、本当にひどいものでした。この本を読んでいて、自分がこのような環境の下で生き残れるだろうかと深く考えさせられました。

また、ピリピ人への手紙2章8節で「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。イエス様はなぜ、十字架刑と言う、世界で一番残酷で、不名誉な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それには、悪魔の計画がありました。ユダヤ教では、人が罪を犯した場合、周りにいる者が、犯罪者に石を投げて殺す「石打の刑」という死刑の方法がありました。しかし、悪魔は、イエス様を犯罪人として世界中に知らせ、イエス様の命を奪うだけではなく、イエス様の教えさえも間違った教えとして世界中に知らせる必要がありました。それには、ローマの法律でイエス様を有罪にして、ローマで一番重い刑罰の十字架に付けて殺すことが一番でした。そのために、悪魔はユダヤ人を扇動して、当時のローマ政府から派遣された、ローマ総督ピラトに、イエス・キリストを十字架に付けて殺すように要求したのです。聖書を読むなら、ピラトはイエス様が無実で訴えられていることを知りつつも、ユダヤ人の暴動を恐れ、イエスに死刑の判決を下して、十字架に付けて殺す権限をユダヤ人に与えたのです。悪魔の計画は、イエス。キリストを十字架に付けて殺すことでした。その計画は成功しました。ところが神様の計画は死んだイエス様をよみがえらせて、私たちの罪の問題を解決することでした。イエス様が死より復活されることによって、悪魔の計画は覆され、神様の計画、人の救いの計画が完成されたのです。

もう一度、最初のお話、イエス様が人と同じになられたお話に戻ります。ここで、イエス様が私たちと同じになられたということは、私たちと同じ痛みを感じる肉体を持たれたということです。十字架に付けられるとは、生きたまま、両手を太い釘で打ち付けられ、また、足は、両足を重ねて、太い釘で十字架に打ち付ける刑罰です。イエス様はどれほどの痛みを感じられたでしょうか。イエス様が捕らえられる前、ゲッセマネの園で、汗が血のように流れるほど、父なる神にお祈りされたことが書かれています。イエス様にとっても十字架はそれほど恐ろしい刑罰でした。出来れば逃げだしたいほどの刑罰でした。しかし、イエス様はその苦しみを自らお受けになられたのです。しかも、その十字架に自分を釘付けにする者のために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と祈られたとあります。だれがこの苦しみの中、人をのろわずに、人の罪の赦しを祈れる人がいるでしょうか。イエス様は、すべての人の苦しみと痛みを、人としてその体全身で受けられたのです。それは、まさに旧約聖書イザヤ書の苦難のしもべの姿でした。

イエス様はなぜ、王様や貴族のような豊かな家庭に生まれなかったのでしょうか。イエス様は大工の家庭に生まれ、生まれた時には、宿をとる宿屋もなく、家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされたと記されています。それは、イエス様の生涯を預言するような誕生ではなかったでしょうか。イエス様は神の子であられるのに、人々にのけ者にされ、犯罪者として十字架に付けられて殺されました。神様はそのイエス様を死よりよみがえらされたのです。イエス様の苦しみは私たちの罪を代わりに担うための苦しみでした。ある人は、私はそれほど大きな罪を犯していないと言うかもしれません。しかし、罪ががんの細胞のように見つけられたとしたらどうでしょうか。人は高額な医療費を払ってもがんを取り除きたいと考えるのではないでしょうか。私たちは神様の前にどれほどの罪を犯しているでしょうか。それは、神の子イエス様が十字架で身代わりとなり死ななければ助からないほどの罪です。イエス様はそれほどの苦しみを覚悟して、人としてお生まれになられたということです。それほど、私たちを愛しておられる神様が他にいるでしょうか。神の子イエス様の誕生は、それほど、私たちの人生にとって本当に素晴らしい出来事なのです。