「神のよき力に守られて」

「神のよき力に守られて」 使徒の働き9章1節~16節

今年の年間聖句は、詩篇57篇1節「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。」を選びました。今、毎朝、ディボーションの時間に詩篇を読んでお祈りをしています。その中で、特に「御翼の陰」という言葉が心に残りました。親鳥が自分の羽でひなを覆い守るイメージです。元旦礼拝では、ダビデとモーセを取り上げて、御翼の陰に身を置くということについて考えました。今日は、新約聖書に登場するパウロとドイツの神学者であり、牧師でもあるボンヘッファーの人生をとおして、私たちが神様に守られるということはどのようなことなのかを考えたいと思います。

パウロ(ユダヤ名サウロ)の名が聖書に最初に登場するのが、使徒の働き8章です。1節「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」とあります。ステパノはキリスト教会最初の殉教者です。パウロはそのステパノの死に立ち会い、人々の着物の番をしていました。8節「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」とあります。パウロは教会を迫害する者として聖書に登場しました。パウロはキリキヤのタルソという町で生まれたとあります。タルソは大きな町で、色々な国の人々が住んでいました。後に、パウロは異邦人伝道という大きな宣教のビジョンを神様から与えられますが、パウロは、タルソで、普通に外国人と接していたので、他のユダヤ人よりも、外国人に偏見がなく、無理なく異邦人伝道ができたものと思われます。それも、神様がパウロを異邦人伝道のために選ばれた理由でしょう。後に、パウロは自分のことをローマ市民だと主張しています。当時は、ローマ政府が世界を支配していましたから、世界中を旅行するのにローマ市民権は大いに役立ったと思われます。このローマ市民権を得るためには、お金持ちか、多くのお金を払ってローマ市民権を買わなければなりません。パウロは、自分は生まれつきのローマ市民であることを主張していますから、パウロの家はかなりお金持ちであったと考えられます。また、パウロは、ユダヤ教の中でも、厳格なパリサイ派に属し、ユダヤ教の教えにも詳しく、将来はユダヤ教のラビ(先生・教授)として期待される人物でした。パウロはユダヤ教に熱心なゆえにキリスト者を迫害したのです。

そのパウロが、使徒の働き9章で、復活されたイエス様と出会うという特別な体験をしました。3節「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天から光が彼を巡り照らした。」4節「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」5節6節「彼が『あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』」この時、パウロは目が見えなくなりました。パウロがダマスコの町に入ると、神様から遣わされたアナニヤという人がパウロのところにきて、彼のために祈ると、パウロの目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになり、神様からの異邦人伝道という使命が与えられたのです。

次にパウロが聖書に登場するのが使徒の働き13章です。2節3節「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、二人の上に手を置いてから、送り出した。」これが、第一回伝道旅行の始まりです。パウロは、3回伝道旅行に出かいけました。しかし、それは簡単な働きではありませんでした。当時の移動ですから船と徒歩の旅です。船も今と違って嵐に遭えば、簡単に難破してしまうような船です。パウロは復活されたイエス様に出会わなければ、立派なユダヤ教の指導者になれた人物です。パウロはなぜ、そんな困難な道を選んだのでしょうか。パウロは自分のことをテモテへの手紙第一1章15節で「私は罪びとのかしらです。」と言っています。その意味は、先ほども紹介したように、パウロがキリスト教を迫害したからです。本来ならば、その罪によって神様に罰せられる者です。パウロは、神様がその自分の罪を赦し、その私に異邦人伝道という使命を与えてくださった、その恵みのゆえに、パウロは異邦人伝道にいのちをささげたのです。カギとなることばは、「罪の赦し」ということです。例えば、友達と食事に出かけて、1000円の夕食を共に食べた、その時、その友達が、自分の分も払ってくれた。その人は友達に感謝します。また、別の日に、別の友達とレストランに出かけ、三万円のディナーをごちそうになった。また、その代金はその友達が払ってくれた。この人はどちらの友達により感謝するでしょうか。もちろん、三万円のディナーをごちそうしてくれた友だちです。神様との関係も同じです。パウロはキリスト者を迫害するという大きな罪を犯しましたが、神様の恵みによってその罪は赦されました。パウロはどれほど神様に感謝したことでしょう。ペテロも、イエス様を三度も知らないと言い、イエス様の弟子であることを自ら否定してしまいました。しかし、イエス様は復活して、そのペテロに「あなたはわたしをあいしますか。」と三度声をかけてくださいました。ペテロはそのイエス様の言葉によって自分の罪が赦されたことを感じたでしょう。

私たちはどうでしょうか。私たちは、どれだけ大きな罪が赦された者でしょうか。それも、イエス様が十字架の上で苦しみを受けて、命まで犠牲にして、私たちの罪の身代わりとなられたのです。私たちはなかなか、自分の罪の大きさに気づかない者です。「神様のよき力に守られる」というのは、危険や苦しみ迫害を受けないという意味ではありません。「神のよき力に守られる」とは、迫害の中でも神様がともにおられるということです。讃美歌21の469番はボンヘッファーが書いた詩を讃美歌にしたものです。彼はドイツの牧師で、ヒットラーに反抗して捕らえられ処刑された者です。ボンヘッファーは、獄中でこの詩を書いたといわれています。迫害の中にあってボンヘッファーは神様の守りを確信していたのです。私たちは、一人で生まれ、一人で死を迎えなければなりません。しかし、その時に神様がともにおられたらどうでしょうか。死は終わりではなく、天の御国への旅立ちです。神様は決して私たちを離れ孤児にはしないと約束してくださいました。パウロもボンヘッファーも苦しみの中で、神様の臨在を身近に感じていたのではないでしょうか。「神様のよき力に守られると」とはそのような意味です。