「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」 マタイ14章22節~33節

ある本で「信心と信仰」の違いについての説明を読んだ時、なるほどと思いました。今まで、「信心」も「信仰」も同じ意味のように思っていました。その本によると「信心」と「信仰」は違う意味のことばで、「信心」とは、信じる心が大切という意味で、信じる心に重点が置かれています。しかし、「信仰」とは信じる対象に重点が置かれていて、何を信じるかが大切なことだと教えていました。たとえば、「いわしの頭も信心から」ということばがあります。その意味は、「いわしの頭のようなとるにたらないものでも、信じる気持ちがあれば尊いものに見えてくる。物事をかたくなに信じる人を揶揄する時などにつかわれる。」とありました。キリスト教では、「信心」という言葉より「信仰」という言葉が使われます。それは、私たちが何を信じているかに重点が置かれているからです。私たちは、信じる心が大切なのではなく、信じる対象の神様のすばらしさを知ることがたいせつなことです。

先ほどお読みしました、マタイの福音書14章22節からの出来事は有名な出来事です。何度も説教で聞いたことのある聖書の箇所ですが、今日は、ペテロのお話としてではなく、自分の話としてこの出来事を考えていただきたいと思います。この出来事は、イエス様が男性だけで五千人以上の人々(女性と子供を含めるなら一万人以上の人々)のお腹を、五つのパンと二匹の魚で満たされた奇跡の後の出来事です。弟子たちを含め、多くの人々はイエス様の奇跡の力に驚きました。その後、イエス様は弟子たちだけを舟に乗せて、ガリラヤ湖の向こう岸へ先に行かせました。そして、イエス様はお祈りするために一人残り山に登られたとあります。弟子たちの中には、ガリラヤ湖の漁師が何人かおりましたが、向かい風のため波に悩まされていたとあります。そんな明け方、弟子たちはイエス様が湖の上を歩いて舟に近づいてきたのを見ました。26節「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは『あれは幽霊だ』と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。」とあります。イエス様は弟子たちを見て言われました。27節「イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。」28節「するとペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。』と言った。」とあります。ペテロの性格が表されることばです。29節「イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方へ行った。」とあります。ペテロは何と勇気のある人でしょう。実際に舟から足を下ろして、湖の上を歩き始めました。30節「ところが強風を見て怖くなり、沈みかかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」とあります。31節「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。』32節「そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。」33節「舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した。」とあります。ペテロはなぜ、沈みかけたのでしょうか。聖書には30節「強風を見て怖くなり」とあります。イエス様はペテロに31節「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われました。ペテロは何を疑ったのでしょうか。ペテロはイエス様の力を疑ったのです。ペテロは強風を見て、イエス様の力を疑いました。強風とイエス様の力どちらの力が強いのか。この時、ペテロはイエス様を預言者とは認めていました。しかし、神の子とまでは信じていませんでした。それゆえ、ペテロは強風とイエス様との力を比べた時、ペテロは強風を恐れたのです。それゆえ、ペテロは沈みかけたのです。イエス様はそんなペテロの信仰を見て31節「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われたのです。イエス様はペテロに信仰がないといわれたわけではありません。「薄い」と言われました。それは、イエス様への信仰、信頼が小さいという意味で、イエス様への理解が足りないと言うことです。イエス様は神の子です。自然を治める力をお持ちの方です。ペテロを含む弟子たちはイエス様が誰であるのか、その理解が足りませんでした。それゆえ、イエス様より強風を恐れたのです。

私たちも、ペテロと同じような状況に立たされる時があるのではないでしょうか。「八方ふさがり」という言葉がありますが、自分の力ではどうしても解決できないような状態。私たちがこの会堂の返済をしているとき、計画通りにはいきませんでした。ある時は、返済額が足らずに、牧師の謝儀を遅らせたこともあります。そんな時には祈ることしかできませんでした。正直、この16年の間の私の祈りの一番の課題は、会堂の返済のことでした。それによって私の信仰は強められました。この経験を通して、神様は必ず約束をなしてくださるという信仰を持つことができました。私たちは、いつも、現実の力と神様の力を比較して考えています。現実より神様の力の方が大きいと信じるとき、勇気をもって一歩、踏み出すことができます。しかし、現実の方が大きく見えるとき、恐れを持ち、ペテロのように沈んでしまいます。大切なことは、神様の力や権威の大きさをどれだけ理解しているかと言うことです。私たちはよく、いくら神様でもそれはできないのではと考えます。それは、神様の力を制限しているからです。本当の力を知らないからです。神様は天地の創り主で今も主権者です。しかし、それは分かっているがそれでも、現実の方が大きく見えるものです。ペテロは沈みかけた時どうしたでしょうか。ペテロは「主よ。助けてください」と叫んだとあります。私たちにできることは、現実を恐れつつも、神様に助けを求め祈り続けることです。

ライフセーバーがおぼれた人を助ける場合、おぼれている人が暴れているときは絶対に近づかないそうです。しがみつかれると危ないからです。それゆえ、おぼれている人が力つきた時に初めて、後ろから近づいて抱き寄せるようにして助けると言うことを聞きました。神様も同じように私たちの力が強いとき、私たちを助けることはできません。私たちが自分の弱さに気づき、神様だけに頼るとき、神様が恐れる弟子たちに近づき、彼らに話しかけてくださったように、27節「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるのです。コリント人への手紙第二12章9節10節「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難をも喜んでいます。というのは、わたしが弱いときにこそ、私は強いからです。』ペテロの手紙第一5章6節7節「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」とあります。私たちは、自分の信じる力に頼る「信心」ではなく、天地の創り主である神、今も全世界を支配しておられる主権者の神を信じる者です。今、私たちは何を恐れているでしょうか、病、老い、死。しかし、私たちは何も恐れる心配はありません。なぜなら、神が私たちとともにおられ、私たちのことを心配してくださるからです。