「神の約束と希望」

「神の約束と希望」 コリント人への手紙第一13章13節

コリント人への手紙第一13章13節に「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」とあります。先週は信仰について学びましたので、今日は、希望について学びたいと思います。

私たちが普通に抱く希望とはどのようなものでしょうか。私たちは良い状況や人の良い所を見て希望を抱きます。決して最悪の状態や最悪の人を見て希望を見出すことはできません。しかし、聖書に登場する人物はそうではありません。アブラハムやパウロは。最悪の状態の中にあって希望に目を留めています。彼らの目は、目に見える状況ではなく、その背後におられる神様に目が向けられていました。彼らは神様の約束を信じ、その神様から希望が与えられていたのです。

1、アブラハム

ローマ人への手紙4章18節「彼は望みえない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。」19節「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。」とあります。アブラハムは75歳の時に神様と出会いました。そこで、アブラハムは神様より「あなたを大いなる国民とする」という約束をいただきました。しかしなかなか、子供が生まれませんでした。また、神様は創世記の15章で、神様は、アブラハムを外に連れ出されて言われました。5節「さあ、天を見上げなさい星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」6節「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあります。アブラハムとサラの状況はあれから何も変わっていません。それどころか、さらに二人は年を重ね、こどもが生まれる可能性はさらになくなりました。それでも、アブラハムは、神様が言われた言葉、「あなたの子孫は星の数ほど増える」という神様の約束を信じたのです。ローマ人への手紙4章21節「神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」とあります。アブラハムは人間的には不可能なことでも、神様にはできないことはないと信じたのです。それゆえ、アブラハムはどんな状況の中にあっても希望を失うことがなかったのです。また、パウロはその出来事を通して、私たちの救いについても説明しています。私たちの罪が赦され、天の御国に入ることができるのは、私たちの善い行いによってではなく、イエス様を神の子と信じる信仰によると説明しています。イエス・キリストの十字架の死にはどういう意味があったのでしょうか。聖書は、私たちの罪の身代わりであったと説明しています。では、それ以外にイエス様の十字架の死の意味を説明することができるでしょうか。聖書を見るなら、イエス様はいくらでも逃げるチャンスはありました。また、イエス様の力を用いれば、ローマの兵隊をユダヤから追い出すことも出来たでしょう。イエス様は十字架の死を避けることも、ローマの兵隊を追い出すこともなさらずに、捕らえられて十字架につけられて殺されました。イエス様はなぜ、逃げなかったのでしょうか。また、なぜ奇跡的な力でローマの兵隊を追い出さなかったのでしょうか。答えは一つしかありません。イエス様は私たちの罪の身代わりとして死ぬために生まれたということ。また、それは、十字架の死によって私たちの救いを完成されるためでした。それ以外にイエス様の十字架の死を説明することはできません。アブラハムはその信仰によって神に義と認められましたが、私たちも同じように、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によって義とみとめられると言うことです。それこそが私たちに与えられている救いの希望なのです。

2、パウロ

パウロという人は、キリスト教を多くの人々に伝えた有名な人です。しかし、その働きは決して楽な働きではありませんでした。ある時は牢屋に投獄された時もありました。パウロとシラスがピリピで伝道の働きをしているとき、無実の罪で投獄されてしまいました。その時、「パウロとシラスが神に祈り、讃美の歌を歌っていた。」とあります。二人は、どうしてそんな状況の中で、神様を讃美することができたのでしょうか。私が神学校に入る前(25歳のころ)外国人7人と共に、中国で伝道していたときのことです。時は、12月ごろでした。中国の北部は、真冬の真っただ中、私たちはその地でホテルを探しましたが、どこのホテルも開いる部屋がありませんでした。そこで、私たちは手をつないで丸くなり、神様に助けを求め祈りました。その後、リーダーと通訳者が、もう一度、ホテルと交渉するためにホテルに向かいました。その時、古い使われていない部屋があることがわかり、私たちは、そこに宿泊することができることになりました。私たちは祈りが神様に聞かれたことで大喜びでした。しかし、その部屋は、取り壊される前で、がれきと、ほこりで、牢獄のような部屋でした。私たちは、部屋の一室に集まり、感謝の祈りの時を持ちましたが、誰も祈ることができませんでした。明らかに、一人一人が失望して、祈ることができなかったのです。翌日、ホテルの方の部屋が空いたので、客室に移ることができました。その部屋は、きれいな部屋で、私たちは、大喜びしました。私たちの信仰はまだまだおさなく、状況に左右される信仰でした。パウロとシラスのように、牢屋の中においても希望を失うことなく、神様に感謝の讃美をささげることができなかったのです。

私たちは、信仰を持っていても、以前と同じように、状況の中からしか、希望を見出すことはできません。しかし、私たちが、神様を見上げるとき、その状況の背後におられる神様を見出すことができます。本当の希望とは、神様から与えられるものです。その希望は失望におわることはありません。今、皆さんはどのような状況にあるでしょうか。ある人は、希望を失い、将来に不安を抱いているかもしれません。しかし、私たちの希望は神様の御手の中にあります。そのことを覚え、もう一度、自分の周りを見渡してみましょう。詩篇121篇「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られた方から。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」私たちの希望はこの天地を造られた神様から与えられるのです。