「父なる神の愛とイエス様の愛」

「父なる神の愛とイエス様の愛」 ヨハネの福音書3章16節

1、父なる神様の愛

聖書は神様から人間に与えられた愛の言葉ラブレターです。先ほどお読みしましたヨハネの福音書3章16節は、聖書全体の中心聖句と言われています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。ここで言われている「ひとり子」とはイエス・キリストご自身のことを表しています。イエス・キリストは、ご自分が努力して悟りを開き、厳しい修行に耐えて神のようになられたお方ではありません。聖書を読むなら、イエス・キリストは、父なる神様が天地すべてを創造される時、すでに共におられたと記されています。イエス・キリストは二千年前に家畜小屋でお生まれになられましたが、それは、人としての誕生であり、神の子イエス・キリストはそれ以前、神の創造以前から父なる神と共におられたお方です。ある時、イエス様と群衆がアブラハムとイエス様とを比較してどちらが偉いのかという議論が起こった時、イエス様は群衆にこのように言われました、ヨハネの福音書8章58節「まことに、まことにあなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです。」と言われました。古い新改訳聖書では「わたしはいるのです。」と言われました。アブラハムは旧約聖書の創世記に登場する人物ですが、イエス様はそれ以前から存在しておられると、ご自身が神と同等のものであることを表明されたのです。

ではなぜ、神の子イエス様は、人として生まれられたのでしょうか。先ほどのヨハネの福音書3章16節の後半で、このように説明されています。「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここで言われている「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に生き続けるいのちのことではありません。私たちはいつか終わりの時を迎えます。死んだ後、私たちの体は火で焼かれ骨となります。しかし、魂は神様のもとに引き上げられます。そこで、最後の審判を待つことになります。世の終わりの時、すべての魂は神様の前に集められ、それぞれの行いによって裁かれるとあります。罪を犯した者は、その自分の犯した罪のゆえに神様から裁きを受けなければなりません。しかし、神様は私たちを愛し、その神様の裁きから私たちを救うために、救いの道を備えてくださいました。それが「一人として滅びることなく」という意味です。では、どのようにして、神様は私たちのために救いの道を備えてくださったのでしょうか。「それは御子を信じる者が」とあります。その意味は、「イエス・キリストを神の子と信じる者が」という意味です。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死ぬために人として誕生してくださいました。イエス・キリストは父なる神の御計画に従って無実でありながら、十字架の死を受け取られたのです。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活され、天の父なる神のもとに昇って行かれました。「御子を信じる」とは、イエス・キリストが神の子であることを信じることであり、死より三日目に復活されたことを信じることです。神の愛とは、ご自分のひとり子を、私たちの罪の身代わりとして十字架で殺すほど、私たちを愛しておられると言うことです。親にとって、自分の子は自分のいのちよりも大切なものです。子の苦しみを見て心の痛まない親はいません。岩渕まことさんが作られた「父の涙」という歌がありますが、それは、十字架のイエス様の姿を見て父なる神様が涙をながされたという歌です。本当に父なる神様が涙を流されたかどうかは聖書には記されていませんが、ご自分の娘を失った悲しみと、父なる神の悲しみを重ねて作った歌です。

2、神の子イエス・キリストの愛

イエス様はヨハネの福音書15章13節で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました。私たちは友のためにいのちを捨てるほどの愛を持っているでしょうか。確かに、自分の子や愛する者のためなら自分のいのちを捨てることができるかもしれません。しかし、悪者や罪人のためにはどうでしょうか。そんな人のために自分のいのちを犠牲にする人がいるでしょうか。イエス様は正しい人のためではなく、罪びとのためにご自分のいのちを犠牲にされたとあります。ローマ人への手紙5章6節~8節「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」イエス様はご自分のいのちを十字架の上で犠牲にすることによってご自身の私たちに対する愛を明らかにしてくださいました。

問題はそれを私たちが素直に受け取るかどうかです。私が中学1年のころラブレターをもらったことがあります。その子は同じクラスの女の子でしたが、中学1年生の秋に両親の都合で東北に引っ越すことになりました。そこで、彼女は私と文通をしたいと手紙をくれたのです。しかし、私はその時、別の女性が好きだったので、悩んだ結果、返事をだしませんでした。今考えると失礼なことをしたと思いますが、当時は相手の気持ちまで考える余裕がありませんでした。結局、私は彼女の愛をうけとりませんでした。私たちと神様との関係も同じことが言えます。私たちが、神様より他のことに興味を持っていたら、せっかく神様が命を懸けて私たちに与えてくださった愛(救い)を受け取ることができません。神様は強引に私たちを信じ込ませるわけではありません。神様は私たちに自由意思を与えてくださいました。それゆえ、私たちは、私たちに与えられた神様の愛(救い)を受け取る自由もあれば、無視することもできます。しかし、私たちが神様の愛を無視する時、神様はどれほど悲しんでおられるでしょうか。神様は私たちのために天の御国を備えてくださいました。私たちはただで、この永遠の命をいただくことができます。しかし、当時の律法学者パリサイ人たちは、自分の努力で正しい者として神様の前に立とうとしました。それゆえ、神から遣わされた救い主イエス・キリストを捕らえ、罪人として十字架に付けて殺してしまったのです。今、神はその大きな手を広げて、私たちが神のもとに帰ることを願っておられます。神様の愛を信じましょう。神様の愛から漏れている人はだれもいません。先ほどの、ヨハネの福音書3章16節で、「世を愛された」とありましたが、世とはこの世の全ての人を差し、あなた自身も含まれています。「世」というところに、自分の名前を入れて読んでみましょう。