「神の創造と神の愛」

「神の創造と神の愛」 創世記1章24節~2章3節

使徒の働き7章において、民衆の長老たちと律法学者たちに捕らえられたステパノは、最高法院の裁判の席で、旧約聖書の創世記アブラハムから始まる神様の計画を順番に語り始めました。この時、ステパノは前もって準備しておいたわけではないのに、旧約聖書の神様の歴史(計画)を正確に語っています。もし、私たちがそのような緊張した場面に立たされた時、あれほど正確に神様の歴史(計画)を語ることができるでしょうか。如何に、ステパノが聖書(旧約聖書を)熱心に読んでいたかわかります。今日から、旧約聖書を通して、神様の御計画を学びます。

「神の創造の秩序と人間に対する神様の愛」(創世記1章1節~25節)

神様は天地すべての創造を六日間で完成されたとあります。果たして、神様は本当にすべての創造の御業を六日間(一日を24時間として計算して、144時間)で完成されたのでしょうか。神様は無から有を生むお方です。天地の創造を六日間でなくても、一瞬にして、すべての創造を完成することができるお方です。それなのに、なぜ、聖書はあえて、六日間を費やして、神がすべての創造を完成されたと記しているのでしょうか。この聖書の記述の目的は、神様が六日間(144時間)ですべての創造を完成されたということよりも、神様は創造の御業を六つの段階を通して、創造の御業を完成されたと言うことを表しているのではないでしょうか。では、神様はなぜ、六つの段階を通して、創造の御業を進められたのでしょうか。その答えは、「人間のためです」創造の順番を見るならそれは明らかです。初めに神様は闇の中に光を創造されました。これが一日目です。次に、空と海を分けられました。二日目。そして次に、陸と海を分けられました。三日目。次に太陽と月、星の動きを秩序あるものとされました。四日目。そして、鳥と魚を創造されました。五日目。そして、六日目に獣、家畜を創造され、最後に人間を創造されました。この順番を見ると、明らかに神様の意図が見えてきます。神様は何の考えもなく、創造されたのではありません。すべて、人間が生活できる環境を一つ一つ整えて、人間を最後に創造されたということです。この創造の記事には、神様の隠れた意図があります。神様はこの創造の御業を通して、ご自身の私たちに対する、特別な配慮と愛を表しておられるのです。

「神様が人間に与えられた特別な惠(特権)」(創世記1章26節~31節)

神様はなぜ、私たち人間を神様(われわれ)に似せて創造されたのでしょうか。それには理由があります。神様は私たち人間をこの地上を管理するものとして創造してくださいました。それで、ここで言われている「似せて」という意味は、外見が神様に似ているということではありません。神様と人間が人格的な交わりができる者、または、意思の疎通ができる者として特別に創造してくださったということです。私たち人間はこの地上の支配者ではなく、管理者です。神様はこの地上を神様の御心に従って管理するように人間に委ねられました。主人と管理者との間には、コミュニケーションがなければ成り立ちません。神様は私たちにこの地上の管理を任せるとともに、神様は初めから、この地上を管理することができる者として、私たちをご自身に似せて創造してくださったのです。その時、神様と人間の間には、信頼と愛の関係(コミュニケーション)がありました。しかし、残念ながら、その信頼を裏切ったのは、人間の側でした。人間は罪を犯し、神様から退けられてしまいました。人間は、神様が特別に与えてくださった、この神様との親しい関係(特権)を失ってしまったのです。

「安息日(礼拝)」創世記2章1節~3節

三つ目の神様の祝福は、神様が第七日目に休まれたことにあります。神様は何の目的で、七日目に休まれたのでしょうか。3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからです。」とあります。神様が七日目を休まれたのは、私たちと向き合うためです。それは、今の礼拝を意味しています。神様は私たちを作りっぱなしにしたのではなく、私たちの話を聞き、私たちに話しかけられる時間を作ってくださいました。それが私たちの礼拝です。ここから、ユダヤ教の安息日ということばがうまれました。また、私たちは、イエス・キリストが死より三日目に復活された日、日曜日を新しい安息日として、教会で礼拝をささげています。礼拝は、神様との対話の日です。私たちは、罪を犯し、神様との親しい関係を失ってしまいましたが、イエス様の十字架の死と復活をとおして、罪赦された者となり、神様との親しい関係を回復することができたのです。

「いのちの息」創世記2章4節~7節

天地創造は創世記の1章の六日間で完成されました。2章の4節からの記述は、人間に視点を置いて人間の創造について語られた箇所です。ここで聖書は人間について二つの事を教えています。(1)人間は地のちりで形造られた者ということ。「地のちり」とは、そのへんにある土のことで、人間は、価値のない土のちりで形造られたということ。(2)神はその鼻にいのち息を吹き込まれました。この「いのちの息」が霊を指すのか、魂を指すのかわかりません。原語のヘブル語では、「息」も「霊」も同じ言葉が使われています。確かなことは、人間は、体(土地のちり)だけではなく、神様から吹き込まれた「いのちの息(霊)」が与えられてはじめて、生き物になったということです。人は神様とつながって、はじめて、人間としての尊厳(価値)ある存在となったと言うことではないでしょうか。

聖書は、神様が私たちに人間に与えられたことば、手紙(ラブレター)です。それゆえ、私たちは聖書を読むことによって、はじめて、神様とはどのようなお方か、人間とは何かを知ることができます。以前、教会に来るまで、私は、漠然と神様はおられるのではないかと感じていました。しかし、その神様は、天地を作られただけで、遠くにおられるお神様で、人間やまして、私一人に関心を持つような神様とは思いもよりませんでした。しかし、聖書を学ぶうちに神様がどのようなお方であり、私たちを愛し、共に歩んでくださるお方。私たちの髪の毛の数さえ知っておられる神様であることを知った時、この神様を本気で信じてみようと思いました。私たちは、罪を犯し、神様との親しい関係(特権)を失ってしまいました。しかし、神様はひとり子イエス様をこの地上に遣わし、十字架の死と復活によって私たちにもう一度、神様との親しい関係を回復するチャンスを与えてくださいました。神様はもう一度、イエス様を通してご自身の愛を明らかにしてくださいました。私たちはその愛に対してどのように答えることができるでしょうか。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロの手紙第一5章7節)神様は目に見えないお方ですが、決して、人格の無い宇宙の力のような存在ではありません。神様は人格を持ち、私たちと関りを持ち、私たちのことを一番心配しておられるお方なのです。