「善悪の知識の木と人の原罪」

「善悪の知識の木と人の原罪」 創世記3章1節~21節

今日は、善悪の知識の木と人の罪(原罪)について学びます。アブラハムの子孫イスラエルの民が、エジプトの地で増え広がると、エジプトの王パロは、イスラエルの民を恐れ、苦役で苦しめました。イスラエルの民が神様に助けを求めると、神様はモーセを遣わし、モーセによって男性だけで60万人、女性子どもを含めると100万人以上の人々がエジプトを離れ、神様がアブラハムに与えると約束されたカナンの地を目指して旅立ちました。これを出エジプトと呼びます。

その後、イスラエルの民は、神様への不信仰のゆえに、40年間荒野をさ迷い歩き、モーセの死後、神様によって指導者に任命されたヨシュアによってカナンの地に攻め入り、カナンの先住民族を追い出し、カナンの地を征服しました。神様はイスラエルの民がカナンの地に入る前に、モーセを通して、カナンの民族と婚姻関係を結んではならないと戒めを与えていました。しかし、彼らはモーセによって与えられた神様の戒めを守らず、その地の民族と交わり、その地の神々を拝み偶像礼拝を始めました。そのため、神様は彼らが神様のもとに帰るように、周りの国々を動かし、イスラエルの民を苦しめました。彼らは苦しみの中、神様に助けを求めると、神様はイスラエルの民を助けるために士師を用いて、周りの国々を追い返しました。しかし、また、国が安定すると、彼らは偶像礼拝を始めました。その繰り返しが士師記の歴史です。士師記の最後の時代が、イスラエルの歴史の中で一番の暗黒の時代だと言われています。士師記の一番最後の言葉が士師記21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とあります。彼らの善悪の基準は、自分自身にあり、自分の都合に合わせて「善悪」を決めるようになりました。そうなると、国はどうなってしまうでしょうか。国が乱れ、イスラエルの国に混乱の時代が訪れたのです。

本来、「善悪」は神様が決められることで、人間はそれに従うものとして創造されました。しかし、人間が「善悪の木の実」を取って食べるということは、神様からの分離を意味していて、それは、すなわち人間の死を意味していました。それゆえ、神様はアダムに対して「善悪の木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われたのです。それに対して、へび(悪魔)の誘惑は、「善悪の知識の木の実」を食べるとは、神様の支配から出て、自分たちで「善悪」を決めることができると誘惑したのです。自分たちで「善悪を決める」と言うことは、自分が神のようになると言うことです。二人は、へび(悪魔)の声に従って「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまいました。二人の目は開かれましたが、神様のように全能の力を得たわけではありませんでした。それどころか、二人は互いが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆ったとあります。それだけではなく、二人は神様の声を聞いて恐れて木の間に身を隠したとあります。今まで二人は神様との親しい関係(特権)が与えられましたが、二人は罪を犯し、その特権を失い、神を恐れ、身を隠したのです。

創世記の3章9節で、神様は二人に「あなたはどこにいるのか。」と呼びかけられたとあります。神様は二人がどこの隠れたのかわからなかったのでしょうか。そうではないと思います。神様は全能のお方ですから、二人がどこに隠れているのか知っておられました。それなのになぜ、神様は二人に呼びかけられたのでしょうか。神様は二人に悔い改めるチャンスを与えられたのです。悔い改めるとは自分の罪を認めて、新しい歩みをすることを意味していますが、二人は自分の罪を認めたでしょうか。「わたしが命じた木からとって食べたのか。」と言われた神様にアダムはこのように答えています。12節「わたしのそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木からとって私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは事実を述べていますが、自分の罪を認めず、責任を女に転嫁しました。さらに、言うなら、あなたが私に与えられた女が取って私にくれたので、食べたのですと女を与えた神様が悪いとも言っているようです。アダムは自分の罪を認めませんでした。では、女性はどうでしょうか。13節「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」エバは蛇の責任にしました。彼女も自分の罪を認めませんでした。そこで、神は二人に罰を与えられました。男には労働の苦しみ、女性には生みの苦しみを与えました。神様は二人を誘惑した蛇にも罰を与えました。14節「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。」また、神様は悪魔に対してこのように言われました。15節「わたしは敵意を、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く、彼はおまえの頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。」ここで神様はすでにイエス・キリストの十字架の勝利を宣言しておられます。「(おまえ)へびの頭を打つ」のはイエス・キリスト。「(おまえ)は彼のかかとを打つ」とは、悪魔がイエス・キリストを十字架に付けて殺すことを意味しています。イエス・キリストは死より復活することによって悪魔の計画を粉砕され、私たちに、天の御国に入れる罪の赦しを与えられたのです。

本来、罪を犯したのは、アダムとエバですから、神様は約束通り二人を殺して、新たに人を創造し、初めからやり直すこともできたはずです。しかし、神様は二人を哀れに思われ、エデンの園を追い出されたのです。その際、神様は二人に皮の衣を与えられたとあります。神様はこの時、すでに、ご自身の子イエス・キリストの死によって私たちを救う計画を持たれました。それが、先ほどの創世記3章15節のことばです。新約聖書において、罪という言葉にハマルティヤという言葉が使われています。その意味は「的外れ」という意味があります。聖書では罪とは神様の教えから外れた行為を指します。私たちはどんなに努力しても、神様の戒めを100パーセント守ることはできません。それゆえ、イエス・キリストによる救いが必要となります。神を失い、善悪を失ったイスラエルの人々は、「自分の目に良いと見えることを行っていた。」と先ほどの士師記の言葉にありました。私たちも、以前は、自分中心の善悪を持っていました。しかし、今は、聖書を通して、神様の御心を知り、神様の戒めを守る者となりました。神様の御計画をダメにしたのは、アダムとエバでした。それによってこの世に罪が入りました。神様は二人を殺さないで、ご自分のひとり子イエス様を殺すことによって、私たちに救いの恵みを与えてくださいました。それは、神様が愛であり、私たちをあわれんでくださったからです。私たちはアダムとエバの子孫として、罪を犯しやすい性質「原罪」を持って生まれました。それゆえ、私たちは罪びととして生まれました。神様は私たちを愛し、私たちを救うために、イエス・キリストを犠牲にされました。そこに神様の愛が表されているのです。