「赦しと和解の福音」

「赦しと和解の福音」 創世記45章1節~8節

創世記の1章から人物に焦点を当てて創世記の全体を学んできました。ここまでのお話を要約すると、(1)神様は六日間で天地すべてのものを創造され七日目に休まれました。(2)神様は地上を管理するものとして、人間をご自身に似せて創造されました。(3)最初に創造された人、アダムとエバは罪を犯し神様からの特権を失い、エデンの園から追い出されてしまいました。(4)神様はアダムとエバにカインとアベルという二人の息子を与えましたが、カインはアベルに嫉妬し、アベルを殺してしまいました。弟アベルを殺したカインは、さらに、神様に退けられ、カインの子孫たちは自分たちの欲望を満たす社会を作り上げました。(5)カインとアベルを失ったアダムとエバに神様はセツを与えました。また、セツの子孫から主の名を呼ぶ種族が生まれました。(6)しかし、カインとセツの子孫が混ざり合い、悪が増大してしまいまい、神様は洪水で地上を滅ぼされることを決心されました。(7)しかし、ノアは神様の御心に叶い、神様はノアに箱舟を作るように命じました。(8)洪水の後、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから地上の人々が増えていきました。(9)神様はセムの子孫アブラハムと契約を結び、彼の子孫を大いに祝福すると約束してくださいました。(10)神様の約束通り、百歳のアブラハムと九十歳のサラとの間にイサクが誕生しました。(11)イサクとリベカが結婚し、エサウとヤコブの双子が生まれました。(12)神様はイサクの後継者としてヤコブを選ばれました。そして、ヤコブの子12人が、後のイスラエルの12部族となりました。

ヤコブは兄の怒りを恐れ、母リベカの兄ラバンのもとに身を隠しました。そこで、ヤコブはラケルと出会い、彼女と結婚するために7年間ラバンの下で働きました。しかし、ヤコブを手放したくない叔父のラバンは、姉のレアを与え、ラケルと結婚したければ姉のレアも妻にしなければラケルと結婚させないとの条件を出しました。ヤコブはレアと結婚しさらに7年間働かされました。さらに、ヤコブは自分の財産を蓄えるために6年間働きました。ヤコブは叔父のラバンのもとで合計20年働きました。その間にレアには子供が生まれましたがラケルには子供が生まれませんでした。そこで、ラケルは自分の女奴隷をヤコブに与え彼女によって子を得ました。レアもラケルの対抗し、自分の女奴隷をヤコブに与え子を得ました。結局、ヤコブは4人の女性を妻とし、母親の違う子が12人生まれました。しかし、ヤコブはラケルの子ヨセフを特別に愛しました。それゆえ、兄弟たちはヨセフを憎みエジプトに奴隷として売り、父ヤコブにはヨセフが獣に殺されたと報告したのです。

ヨセフはエジプトで奴隷として働きました。その後、エジプトの王が不思議な夢を見てその夢を解き明かす者を探しました。ヨセフは夢を解き明かす力があり、エジプトの王に呼び出され、エジプトの王の夢を解き明かました。エジプトの王はヨセフにエジプトの王の次の位を与え、飢饉に備えさせました。ヨセフの言葉通り、世界中に飢饉が訪れ、食べ物が亡くなりましたが、エジプトにはヨセフのおかげで、食べ物が残されていました。世界中から食べ物を求めたエジプトに人々が集まりました。ヤコブの子どもたちも食べ物を求めてエジプトにやって来ました。ヤコブの子どもたちがエジプトに来た時、兄弟たちはヨセフを見てもヨセフだとは気づきませんでしたが、ヨセフは兄弟たちに気づきました。ヨセフは同じ母の子ベニヤミンを連れてくるように兄弟たちに命じました。二度目にエジプトに兄弟たちが来た時、末の弟ベニヤミンも一緒でした。ヨセフはベニヤミンを手元に置くために、兄弟たちをわなにかけ、ベニヤミンを残して、父の家に帰らせようとしました。その時、ユダがベニヤミンをかばい、自分をエジプトに残し、ベニヤミンを父のもとに帰すようにヨセフに懇願したのです。ヨセフはベニヤミンを守るために、自分がエジプトに残ることを申し出たユダの姿に感動し、ヨセフは自分が、弟のヨセフであることを明かし、自分をエジプトに奴隷として売り渡した兄弟たちを赦すことを決心したのです。

ヨセフはなぜ、兄弟たちを赦す決心をしたのでしょうか。この時、ヨセフはエジプトの王の次の位ですから、兄弟たちを捕らえ殺すことも出来ました。しかし、ヨセフは兄弟たちを赦しました。そこには、兄のユダが弟のベニヤミンをかばう姿に感動したこともあるでしょうう。しかし、それ以上に、ヨセフが兄弟たちを赦した大きな要因は神様にありました。エジプトに売られてから、ヨセフは神様に守られ、苦しみを通して信仰が深められていきました。ヨセフは兄弟たちの悪の背後に神様の計画を見ていたのです。それゆえ、創世記45章5節「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなた方より先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」8節「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」と告白することができたのです。

自分に危害を加えたものを、仕返しもしないで赦すと言うことは、人間の力ではできないことです。イエス様は弟子たちに対して、七回を七十倍するまで赦し続けなさいと言われました。七回を七十倍するまでとは、完全に赦しなさいと言うことです。神様はなぜ、それほどに私たちに人を赦すように命じられるのでしょうか。それには、二つの理由が考えられます。(1)憎しみからは何も良いものは生まれません。また、憎しみを持ち続けて生きることは、憎しみに縛られることであり、決して幸せな人生ではありません。(2)私たちもイエス様の十字架の贖いによって罪赦された者だからです。マタイの福音書18章21節~35節。1万タラントの借金を赦された男が、百デナリ借りのあるものを赦すことができずに牢屋に入れたたとえ話をイエス様は弟子たちに話されました。一万タラントと百デナリとはかなりの差があります。私たちは神様の前にどれだけの罪を犯した者でしょうか。神様は私たちの罪を赦すために、ご自分のひとり子を十字架にかけて殺すという大きな犠牲を払って私たちの罪を赦してくださいました。「贖う」とは、代価を払って買い取ることを意味しています。また、「福音」とは、良い知らせという意味です。聖書はなぜ、良い知らせなのでしょうか。旧約聖書の時代は、神様の戒めを守ることによって義認められる時代でした。しかし、新約聖書において、イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれ、三日目に復活され、天に昇って行かれたことによって、罪が赦される(救いが信仰によって与えられる)時代が到来したのです。これほどの祝福がどこにあるでしょうか。人間の知恵では理解できない、信じられない出来事です。それゆえ、ユダヤ人はイエス・キリストによる救いを拒否しました。日本においても多くの人々がこの素晴らしい知らせを信じることができません。このことは、人間の知恵では理解できないことです。

赦すと言うことは、感情ではなく、意思による決定が不可欠です。愛することは自然にできます。美しいものを愛し、好むものを愛することは自然にできます。しかし、人を赦すことは、時間がたてば自然にできると言うことはありません。憎しみは何十年と続きます。それゆえ、人を赦すことは、まず第一に、自分の意志において、赦す決断を下さなければなりません。また、その背後には、神様の働きが必要です。感情はその後で、少しづつ、ついていきます。私たちは、神様の愛によって多くの罪が赦されました。その神様の愛を覚える時、はじめて、人を赦す心が整えられていくのです。