「因果応報と神の愛」

「因果応報と神の愛」ヘブル人への手紙12章5節~11節

新型コロナウイルスの感染が世界中に広がっています。今後、アフリカなどの医療設備の整っていない国において爆発的な感染が起こり、多くの死者が出るのではと懸念されています。このような世界規模の災いが起こると、多くの人々はその原因探しをします。ある人は、神様がいるのならなぜ戦争がなくならないのか、飢餓で苦しむ人がいるのか、災害で多くの人が死ぬのかと、神様の存在を疑います。またある人は神様を呪い、またある人はその存在を認めつつも、自分の生活には無関心な神様だと決めつける人もいます。はたして神様は存在しないのでしょうか。また、神様がおられるのに、なぜこのような災害が起こるのでしょうか。
神学校の1年の時に「キリスト教世界観」という授業を受けました。これは簡単に言えば、キリスト教(聖書)を通して、世界の様々な出来事を考える力を養うための授業です。私たち日本人は知らず知らずのうちに、仏教や神道の影響を受けて育ってきました。それゆえ、死生観や神観、人間論などを、キリスト教という立場で考える力が必要となります。これは、神学の基礎となる大切な授業です。例えば、私たちは、汎神論(はんしんろん)という沢山の神々の存在を信じる国で育ちました。それゆえ、漠然と神の存在を信じてはいても、唯一の神を受け入れるのには抵抗感があります。しかし、キリスト教は一神教であり、創造主なる神だけを神としてあがめる宗教です。また、神と悪魔との関係についても、一般的には対立的で、主権争いをしているようなイメージを持ちます。しかし、キリスト教ではそうではありません。旧約聖書のヨブ記を読めば明らかですが、悪魔は神より下の位の存在であり、神の許可なくして、ヨブを苦しめることはできませんでした。このように、聖書では神が絶対的存在です。すべてのことは、神様の御手の中にあり、御計画であるという立場です。そう考えると苦しみや災いも神様が与えたことになります。それでは、神様はなぜ、私たちの人生に苦しみを与えるのでしょうか。その答えは、すぐに明らかにされることもあれば、長い時間を必要とすることもあります。また、永遠に明らかにされないこともあるのです。すべてのことを知ることが神様から許されているわけではないからです。
そのことは、イスラエルの国の歴史を考えるとよくわかります。北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリアにより、また、南ユダ王国は紀元前585年にバビロニヤにより滅ぼされました。その原因はイスラエルの民の偶像礼拝による罪でした。しかし、神様の目的は彼らを完全に滅ぼすことではありませんでした。イスラエルの民は神様の約束の通り、捕囚から70年後に国を再建することができたのです。この70年の間に彼らの間にどのような変化があったでしょうか。彼らはバビロニヤに捕囚として移住させられ、神殿での礼拝ができなくなってしまいました。それゆえ、動物のいけにえを捧げる礼拝ではなく、神のことばである旧約聖書に耳を傾けるという会堂での礼拝へと変化したのです。70年後に国が再建され神殿が立て直されましたが、イスラエルの民は、神殿礼拝と共に、会堂礼拝を続けました。国が滅ぼされるという苦しみがなければ、会堂礼拝という形は生まれなかったでしょう。

詩篇119篇71節「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」

私たちには苦しみを通してしか学ぶことができないこともあるのです。

ではなぜ神様がおられるなら、正しい人が苦しみを受け、悪を行う者が栄えるのかという疑問を私たちは持ちます。それは「因果応報」という考えを私たちが持っているからです。「因果応報」とは、過去に行った善行や悪行によって、受ける報いが決まるという考え方です。良いことを行えば良い報いを受け、悪を行えば悪い報いを受けるというのです。それゆえ、現在の苦しみの原因を過去の悪行によるものと考えてしまいます。ヨブの友人たちは、ヨブの苦しみの現状を見て、その原因が彼の今まで犯してきた罪にあると考えました。また、神は罪を犯した者が悔い改めるなら、その人の罪を赦される(苦しみから解放される)と信じていました。それゆえ、友人たちは、良かれと思って、ヨブに罪を認めて悔い改めるように説得したのです。しかしヨブには、こんな苦しみを受けなければならないほどの罪を犯した自覚がありません。それゆえ、ヨブは、彼らが信じる「因果応報」の考えを否定し、自分が受けている苦しみの意味を神に求めたのです。ヨブ記の最後には神様ご自身が登場しますが、ヨブが求めた苦しみの意味についての説明はされませんでした。しかし、ヨブは神様の語りかけを聞き、自分が人間でありながら、神と同等の知恵があるかのように振る舞う自分の姿ー罪ーに気づかされました。ヨブが神様の前にへりくだった時、神様は彼を苦しみから解放し、以前の倍の祝福を与えられました。ヨブはこの苦しみを通して、神様の偉大さと、その計画が確かであることを教えられたのです。(人間には知りえないことがあることを学びました。)
苦しみは、「因果応報」によるものではありません。神様の御計画の中にあるものです。ではなぜ、神様は私たちを苦しめられるのでしょうか。それは神様が人格をお持ちの方であり、一人一人と特別な関係をもっててくださるので、苦しみの答えは千差万別です。しかし意味のない苦しみはありません。神様が私たちに与える苦しみにはすべて意味があります。ヘブル人の手紙12章5節から11節では、父と子の関係を通して苦しみの意味を説明しています。ここで大切なことは、父が子に訓練を与えるのには意味があると言うことです。

10節「霊の父(神様)は私たちの益のために、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。」

とあります。また、

11節「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、のちになると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

とあります。訓練はどれも苦しいものです。しかし、それに耐えなければ得ることができないものもあります。神様は私たちを愛しているがゆえに、苦しみを与えられます。しかし、その苦しみを受ける私たちが、その父の愛(神様の愛)を知らなければ、苦しみは、苦しみに終わり、何も益を生み出しません。ただの苦しみに終わってしまいます。良い実を結ぶためには、父と子の間に信頼関係が必要です。アブラハムが息子のイサクを連れて山に登り、イサクを全焼のいけにえとして捧げようとしたとき、イサクは父アブラハムに抵抗したとは書かれていません。イサクは父アブラハムを信頼していたので、父アブラハムに自分のいのちを委ねたのです。私たちはどれほど神様を信頼しているでしょうか。恵みの多い時に神様を喜ぶことは誰でもできます。しかし、苦しみの時はどうでしょうか。それでもなお、神様を信頼し、喜ぶことができるでしょうか。それは、神様への信頼と愛がなければできないことなのです。神は愛です。その神が私たちを愛する子として取り扱ってくださいます。それを覚えるとき、私たちは苦しみが苦しみではなく、苦しみから希望を見出すことができるのです。