本当のゴールを目指して

「本当のゴールを目指して」へブル人の手紙11章8節~16節

先週は「キリスト教世界観」について少しお話しました。私たちがどのような「死生観」を持つのかは、キリスト者として大切なことです。「死生観」とは、死とは何か、命とは何かについてキリスト者として考えるということです。

1「いのちについて」
キリスト教では「創造論」の立場をとります。旧約聖書の創世記の初めに、神ご自身が創造主であることを明らかにしておられます。つまり私たちは偶然に生まれた者ではなく、私たちにいのちを与え形作ってくださったお方、神がおられるのです。
私は教会に導かれるまで「創造論」を知りませんでした。学校では「進化論」が教えられ、人間はサルから進化したものであると信じていました。また、自分が生まれたのは、偶然であり意味も目的もなく生まれたと信じていました。しかし、中学生の頃、自分の存在に疑問を持ち、私は何の目的で生まれたのか、自分には生きる意味と価値があるのかと疑問を持つようになってきました。高校卒業後は、これではいけない、自分の人生は、自分で目標を決め、それを目指して生きていくべきであると強く感じるようになりました。東京に出てお金を貯め会社を興して社長となり、お金儲けすることを目的に生きる決心をしました。自分が亡くなっても、自分が生きた証をこの地上に残そうと考えたのです。そのように、お金を儲けて成功することを目的に生きていましたが、しばらくして、そのような生き方にも疑問を持つようになりました。そんな時に、代々木公園で若い宣教師のグループと出合い、ゴスペルコンサートに誘われたのです。その時初めて教会に足を踏み入れ、ゴスペルを聞きました。その賛美を聞いたとき、私の心は熱くなり、目が涙であふれました。なぜ自分はこんなに感動しているのか不思議でなりませんでした。そして次の日曜日にはじめて礼拝に参加しました。その時の聖書の話は難しくて理解できませんでしたが、ゴスペルの賛美が私の心を深く慰めました。そして、英語と日本語の新約聖書をいただき、初めて聖書を読みました。正直よくわかりませんでした。しかしここに私の知らない何かがあると感じ、毎週礼拝に参加するようになりました。何人かの親しいクリスチャンの友人もでき、神について多くのこと教えてもらいました。真の神がおられることまた、私たちはその神からいのちが与えられて誕生したことなどを教えられました。今まで自分は偶然に、意味もなく目的もなく生まれたてきたと信じていましたが、自分にいのちを与え、生きる目的を与えてくださる神がおられることを知り、ますます、この神について知りたいと思うようになりました。そして今までは自分の力で生きていかなければならない、自分の力で成功しなければならないと頑張って歩んできましたが、私は神様によって生かされていることを知り、生きることが楽しくなりました。このように、自分が何の目的もなく偶然に生まれたものと信じて生きるか、それとも、神様によっていのちが与えられたと信じるかでは、その生き方に大きな違いが出てくるのです。
2「死について」
日本では、死について考えることは縁起が悪いと考えられてきました。しかし、2008年頃より「終活」という言葉が生まれ、人々は自分の死後のことについて考えるようになりました。以前は、遺言という形で、残される家族に財産分与などについて文書で残してきましたが、現在では、「エンディングノート」などが出版され、葬儀の形や自分の残した遺品などについても書き残すようになりました。
はたして私たちは、「終活」について財産や遺品のことを準備するだけで十分でしょうか。一般的に「死」は終わりであり、その後のことは考えません。しかし、キリスト教では、死は、この地上での最後の時であっても、その先に永遠の世界があることを教えています。最初にへブル人の手紙11章8節からのことばを読みました。ここに登場するのは、信仰の父と呼ばれるアブラハムです。アブラハムは75歳の時に神と出会い、祝福の契約を結びました。それからの人生、彼は神とともに歩みました。神はアブラハムを祝福し、彼は経済的にも豊かになっていきました。しかしアブラハムは亡くなった妻サラのために購入した墓地以外は、一坪の土地さえも手に入れませんでした。その子イサクも、孫のヤコブも、家を建てることなく天幕生活を続けました。彼らはなぜ土地を購入して家を建てなかったのでしょうか。へブル人の手紙の著者はこのように説明しています。

へブル人への手紙11章13節「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」
へブル人への手紙11章16節「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

このようにアブラハムやイサク、ヤコブたちは、この地上で財産を残すことを考えずに、神が供えてくださる天の御国を待ち望んでいたのです。私たちのゴールはどこでしょうか。この地上だけを考えるなら、「死」はすべての終わりです。せいぜい遺族に財産を残すだけです。しかし神が私たちに備えてくださる天の御国に入ることがゴールであるならば、私たちの人生は変わってきます。マタイの福音書19章16節にお金持ちの青年がイエスのところに来て尋ねました。

16節「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」

イエスは彼に言われました。
21節「完全になりたいなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従ってきなさい。」

しかし、この青年はイエスの前から去って行きました。聖書は彼が多くの財産を持っていたからであると記しています。多くの財産を持つことが悪ではありません。財産を自分のものとして自分のためだけに用いることが悪です。この青年は、永遠のいのちよりも財産を選んだのです。私たちの人生のゴールはどこでしょうか。人生のゴールが死であるなら、そこで終わってしまいます。しかし私たちのゴールが天の御国であるなら、この地上での私たちの生活は、アブラハムと同じように旅人です。私たちはこの地上に財産を蓄える者ではなく、天に宝を積む者です。それ故、私たちはこの地上の財産により頼むのではなく、この世界を支配しておられる真の神に望みを置いて生きていくのです。

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