「モーセの死」

申命記34章1節~8節
申命記の34章7節にモーセが亡くなった時の身体的な状況が説明されています。

7節「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」

とあります。今でこそ100歳を迎えた人の話を聞いてもそれほど驚かない時代になりました。それだけ長寿の人が増えたということです。しかしそれも最近の話で、50年前では、100歳の人がまだ珍しい時代でした。モーセの時代ではなおのこと、100歳を超えて
120歳にして、目がかすまず気力も衰えていなかったということは普通のことではありません。それほど神がモーセを祝福し守っておられたということでしょうか。
モーセがカナンの地に入れなかった理由を申命記の32章51節にこのように記されています。

51節「それは、あなたがたがツインの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の子らの間で、わたしの信頼を裏切り、イスラエルの子らの間で、わたしを聖なる者としなかったからである。」

この出来事は民数記20章2節から13節の出来事を指しています。イスラエルの民は水がないとモーセに不平不満をぶつけました。そこで神はモーセにこのように仰せられました。

8節「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」

とあります。しかし11節にはこのように書かれています。

11節「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出た。」

モーセはなぜ、杖で岩を叩いてしまったのでしょうか。聖書にはその時のモーセの気持ちは書かれていませんが、おそらく、何度も何度も不平を漏らすイスラエルの民に対する怒りがあったものと思われます。

神はモーセに言われました。

12節「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

モーセは自分の怒り(イスラエルの民に対する)を抑えきれず、岩に命じよと言われたのに、神の言葉に従わないで、神よりいただいた杖で、思いっきり岩を叩いてしまいました。その行動は神の栄光を現わすにはふさわしい行いではありませんでした。モーセはこの出来事ゆえにカナンの地に入ることはできないと神に言われたのです。
しかし神はモーセを山に導き、ピスガの山の頂上からカナンの全土を見せてくださいました。彼は山の上からカナンの地を見て満足したのではないでしょうか。ここでモーセの役割は終わりました。次に、神はヨシュアをモーセの後継者として選び、彼によってイスラエルの民はカナンの地へと向かったのです。
神は目的をもって私たちにいのちを与えてくださいました。それゆえ、そのいのちの終わりの時も神は定めておられます。誰にも死は訪れ、死を避けることはできません。それゆえ私たちは死を正しく受け取らなければなりません。死とは何でしょうか。死は肉体だけの死ではありません。死んだ後、神の裁きが行われます。人が死を恐れるのは死んだ後のことがわからないからです。しかし人の死後について、神は聖書を通して明確に教えています。死後私たちは二つに分けられます。罪を犯した者は自分の犯した罪のゆえに神の裁きを受けます。また、イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦されたクリスチャンは天の御国(天国)に迎えられます。私たちクリスチャンにとって死は天国への旅立ちです。私たちが天国に迎えられるのは、私たちの正しさや善い行いによるものではありません。私たちクリスチャンも罪人です。しかし、私たちの罪はすでにイエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに赦されました。それゆえ、私たちは罪が無い者としてではなく、罪赦された者として神が備えてくださった天の御国(天国)へと迎えられるのです。
モーセの120年の人生は決して平坦な道ではありませんでした。神が共におられる人生とは、決して楽しく何の問題もなく過ごすという意味ではありません。神が共におられるとは、喜びの時も苦しみの時も神が共におられるという意味です。長い人生、短い人生、人それぞれに与えられています。苦難の時があり、喜びの時もあります。そして、すべての人は終わりの時に神様の前に立たされると聖書に約束されています。私たちはその時をどのように迎えるでしょうか。神に「よくやった、忠実なしもべだ。」と迎えられる者となるのか。それとも、自分が行った罪のゆえに、罪人として神に裁かれる者となるのか。私たちは生きている間に、この決断(神に頼るか自分に頼るのか)をしなければならないのです。