悔い改めとバプテスマ(洗礼)

マルコの福音書1章1節~14節
今日からマルコの福音書を少しずつ学びます。マルコの福音書を改めて読んで一つの疑問が浮かびました。それはマルコがなぜ、イエスの誕生の記事から書かなかったのか、ということです。マタイもルカもイエスの誕生から始めています。ではなぜ、マルコはイエスの誕生を飛ばして、いきなりイエスの宣教の話から始めたのでしょうか。色々調べて、私なりに考えてみました。
マタイの福音書の著者マタイは、ユダヤ人にイエス・キリストが旧約聖書に預言されているメシヤ(救い主)であることを伝える目的でマタイによる福音書を書きました。ユダヤ人は旧約聖書を通して、救い主はダビデの家系から生まれると信じていました。それゆえマタイはイエスの系図と誕生の話から始めたものと思います。(マタイの福音書では旧約聖書の引用が多く記されています。)
ルカの福音書は異邦人(ユダヤ人以外の民族)であるルカが同じ異邦人のテオピロという高官にイエス・キリストのことを伝えるために書きました。彼はイエスのことを正確に伝えるために、現地に赴き入念に調査を行いました。その調査の結果、イエスの誕生の記事から、この福音書を書いたものと思われます。
また、マルコの福音書は、マルコがペテロの通訳者として働いている時に、ペテロから話を聞き、それをまとめたのがマルコの福音書だと言われています。マルコはイエス・キリストの働きを中心にこの福音書を書きました。それゆえ、マルコはイエス・キリストの誕生の記事からではなく、イエス・キリストの宣教の働きから書き始めたのではないでしょうか。
マルコはイエスの宣教の働きを紹介するために、バプテスマのヨハネの働きから書き始めました。彼は、バプテスマのヨハネについて、旧約聖書のイザヤ書とマラキ書を引用して、彼こそが救い主の前に遣わされる旧約聖書に預言された、預言者であると紹介したのです。

「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を整える。」
(マラキ書3章1節)
「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
(イザヤ書40章3節)

マルコはバプテスマのヨハネがどのようにして、救い主(イエス)の通られる道をまっすぐにすると考えたのでしょうか。それは「悔い改めとバプテスマ」によってです。当時、パリサイ人律法学者たちは、ユダヤ人はアブラハムの子孫ゆえに罪はないと教えていました。(選民思想)しかしバプテスマのヨハネはユダヤ人も異邦人と同じ罪人であり、バプテスマ(洗礼)を受けなければならないと教えたのです。当時としてはこの教えは驚くべきもので、律法学者パリサイ人たちからは反発を受けました。しかし多くの者たちがバプテスマのヨハネのところに集まり、彼からバプテスマを受けました。ユダヤ教のおいても洗礼という儀式はありました。それはユダヤ人以外の民族がユダヤ教に改宗する場合に、今までの罪を洗い流すという意味でバプテスマが行われていました。バプテスマのヨハネはその儀式を拡大して、ユダヤ人もすべての人も罪を悔い改めてバプテスマを受けなさいと教えたのです。
マルコはここで、バプテスマのヨハネが授ける洗礼とイエスの御名によって授ける洗礼の違いについてバプテスマのヨハネ自身の言葉を引用して説明しています。

「ヨハネはこう宣べ伝えた。『私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。』」(7節8節)

「履き物のひもを解く」とは、当時、客の履き物のひもを解き足を洗うのは、その家で一番身分の低いしもべの仕事とされていました。バプテスマのヨハネは、救い主と自分とでは比較にならないほど、自分の身分が低いことを表した言葉です。また彼は自分の授けるバプテスマは水で外側の汚れを洗い落とすのに過ぎない働きであり、一方、救い主が授けるバプテスマは聖霊によって人間の内面の罪の問題を解決するバプテスマである言っているのです。
イエスは宣教のはじめにこのように言われました。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)

「時が満ちた」とは、神が定められた時が来たという意味です。また、「神の国」とは、天の御国を意味するだけではなく、神の支配を意味する言葉でもあります。「悔い改める」とは、自分の罪を認めて方向転換するという意味です。今までユダヤ人達は選民思想のゆえに罪はない、アブラハムの子孫のゆえに特別に神様から祝福された民だと信じてきました。しかしその考え方を捨てて、自分の罪を認め神の支配(神の元)に帰りなさい、方向転換しなさいという意味なのです。
では、私たち日本人が「悔い改める」とはどういうことでしょうか。
(1)自分が罪人であることを認める
日本人の罪意識は犯罪と結びついていて、大きな罪には敏感でも、小さな罪には鈍感なところがあります。ですから、罪がないとは言い切れませんが、自分が罪人であるという自覚には乏しいところがあります。しかし神の前では大きな罪も小さな罪もありません。どんな罪であっても、罪を犯した者は神の前で罪人として裁かれます。まず私たち日本人は自分が罪人であることを認めること、これが悔い改めるということです。
(2)自分の力、功績(善い行い)では天国に入れないことを認める
日本人は、善いことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄に行くと考えています。しかし本当にそうでしょうか。聖書は、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ3章23節24節)

とあります。「神からの栄誉を受けることができず」とは自分の罪のゆえに人は天国に入れないという意味です。また、「キリスト・イエスの贖い」とは、イエスの十字架の死と復活によりという意味です。また、「価なしに」とは、この救いがただで誰にでも与えられるという意味です。
「福音」とは、良い知らせの意味です。イエスが人として生まれるまで、ユダヤ人達は神の前に正しい者となるために、律法を一生懸命守る事だと考えていました。しかし神の子であるイエスが人として生まれ、十字架で死に三日目に復活され、父なる神の元に帰られたことによって、私たちにすばらしい知らせが伝えられました。それは、私たちの行いや正しさではなく、イエスを神の子と信じる信仰により、自分の罪が赦され天の御国に迎えられるというすばらしい知らせです。イエス・キリストの十字架の贖いは、すべての人の罪を赦す力があります。なぜなら、神の子のイエス・キリストが私たちの罪のために、自ら十字架についてご自身の命を犠牲にしてくださったからです。これが「福音」「良い知らせ」であり、マルコがこの福音書全体で私たちに語り掛けていることなのです。