断食と安息日

マルコの福音書2章18節~28節

今日はマルコの福音書2章18節から断食と安息日について学びます。

(1)断食について(マルコの福音書2章18節~22節)

18節に「さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。」とあります。ここで言われている断食とは、旧約聖書で神様が定められた断食ではありません。この時代パリサイ人たちは自分たちの信仰深さを人々に見せるために、週に二度断食をしていました。また、ここに登場するヨハネの弟子たちとは、バプテスマのヨハネの弟子たちのことです。バプテスマのヨハネはユダヤ人たちに罪を認めて悔い改めのバプテスマを受けるように教えました。それを聞いたユダヤ人たちはバプテスマのヨハネのところに来て、多くの人々が洗礼を受けました。バプテスマのヨハネの重要な働きは、ユダヤ人たちにも罪があることを教え、罪を悔い改め洗礼を受けるように教えたことです。しかしそれはユダヤ教に新しい教えを付け足したにすぎず新しい教えではありませんでした。バプテスマのヨハネの弟子たちもユダヤ人の習慣に従って断食をしていたのです。イエスはバプテスマのヨハネの働きを評価しつつも彼の働きの限界をも指摘しました。

 

21節「だれも真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。」

22節「まただれでも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。あたらしいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 

このたとえ話でイエスは「新しい布切れをバプテスマのヨハネの教え」「古い衣をユダヤ教」に喩えています。新しい布切れで古い衣に継ぎを当てれば、古い衣を引き裂き破れがもっと悪くなってしまいます。ユダヤ教に新しい教えを付け足しても、結局それはユダヤ教自体を壊してしまうことになるという意味です。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れれば、ぶどう酒が醗酵し古い皮袋は伸縮できないので皮袋が破れてしまう。新しいぶどう酒(キリストの教え)は新しい皮袋(新しい教え)に入れなければなりません。イエスの教えはユダヤ教に新しい教えを付け足したものではありません。イエスの教えは旧約聖書を土台としていますが、全く新しい教えだったのです

しかし、イエスは断食を否定したわけではありません。「花婿(イエス・キリスト)」がいる間は、婚宴の喜びの時間ですから断食はしないが、「花婿が取り去られる(十字架で命を犠牲になれた後)」弟子たちも断食をするという意味です。旧約聖書の時代から特別な願いをささげるとき、また、特別な状況の中で人々は断食して神に祈りました。イエスも宣教を始められる前に40日断食をしています。しかし、自分の信仰深さを人々に示すために習慣として断食することは、人間の考えでしかありませんでした。それは本来の断食の意味から外れた行為だったのです。

(2)安息日について(マルコの福音書2章23節~28節)

安息日の起源は古く、旧約聖書の創世記2章までさかのぼります。

 

2節「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。」

3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからです。」

 

この安息日が神様の戒めとして表されたのが、神がモーセに与えられた十戒においてです。

 

出エジプト記20章8節~11節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

 

安息日が厳格に守られるようになったのは捕囚後の中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代約400年間)の頃からだと言われています。イスラエルの民は国を滅ぼされ神殿が破壊され、多くの者たちがバビロニヤに捕囚として移住させられてしまいました。彼らは神殿礼拝の代わりに、会堂に集まり賛美と祈りと旧約聖書の朗読と説教に耳を傾ける礼拝を守るようになりました。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から始まり土曜日の日没までと定められていました。彼らにとっての安息日は、神が休まれユダヤ人を祝福してくださる日ですから、その日のすべての労働が禁じられていました。火をおこすことや薪を運ぶことも禁じられていたのです。

マルコの福音書2章23節からの出来事は、安息日に弟子たちが麦畑で穂を摘みはじめたことをパリサイ人たちがとがめたところから始まりました。ユダヤ教では他人の畑に入って穂を摘むことは許されていました。パリサイ人たちがイエスの弟子たちをとがめたのは「安息日にしてはならないことをした。」という問題です。パリサイ人たちは、弟子たちが安息日に穂を摘み始めた行為を「収穫の働きをした」ということで彼らをとがめたのです。イエスはこれに対して旧約聖書第一サムエル記21章の出来事、ダビデがサウル王に命を狙われ慌て家を出てきた後、神殿で祭司から祭司以外は食べてはいけない供えのパンをたべた出来事を通して、神の戒めは人を縛る(苦しめる)ために定められたのではなく、人を祝福するために定められたもので、安息日の戒めよりも人の命、人の必要が優先することを教えられたのです。

さらに、

28節「人の子は安息日にも主です。」

と言われました。「人の子」はイエス・キリストのこと。安息日であっても、安息日の主であるイエス・キリストに仕える弟子たちの必要を満たすことは、律法の戒めを守ることよりも勝ると言われたのです。

キリスト教ではイエス・キリストが死より三日目に復活された日曜日を新しい安息日として礼拝を守っています。私たちはどのように安息日を守るべきでしょうか。パウロは礼拝についてローマ人の手紙の中でこのように教えています。

 

ローマ人への手紙12章1節2節「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」

 

とあります。ここでパウロは「自分を献げること」と「自分を変えていただく」ように勧めています。私たちはこの世から影響を受け、この世と調子を合わせてしまう弱さがあります。私たちは御ことばに自分を照らし合わせることによって、その歪みを見つける必要があります。聖書は過去の出来事を伝える古い本ではありません。聖書は神のことばとして現在の私たちにも生きた神のことばです。それゆえ、聖書の人物だけではなく、今を生きる私たちに対する神のことばです。私たちは、過去の歴史としてではなく、また、他人事ではなく、自分を聖書の中に置き、自分に語り掛けられた神の言葉として耳を傾けるとき、私たちは自分のゆがみに気づき、そのゆがんだ自分自身を神に差し出すとき、私たちは神によって変えられるのです。