神の家族

「マルコの福音書3章20節~35節

マルコの福音書3章後半から、「赦されない罪」と「神に家族」について学びます。

赦されない罪について(マルコの福音書3章20節~35節)

先週、神は私たちが自分の罪を認めて悔い改めるならどんな罪をも赦してくださるというお話をしました。神は、私たちの罪を赦すために、ひとり子イエス・キリストを人として誕生させ、十字架に付けていのちを犠牲にされました。また、イエス・キリストは私たちの罪を背負って十字架の上でいのちを犠牲にされました。それは、すべて私たちの罪を赦すための究極的な神の愛ゆえの犠牲でした。それほど神は私たちを愛し、私たちの罪を赦すために大きな犠牲を払ってくださいました。それゆえ、私たちは自分の罪を告白することによって罪赦される者とされるのです。

しかし今日の聖書の個所で「赦されない罪」があることを教えています。それは、どのような罪のことなのでしょうか。イエスの働きが近隣に伝わると、多くの人々がイエスのところに押し寄せるようになりました。律法学者たちはそれを見て、イエスに嫉妬し、何とかイエスの人気を台無しにしなければならないと考えるようになりました。しかしイエスの働きは言葉だけではなく、実際に人々の病がいやされ、悪霊が追い出されていました。彼らはイエスがそのような権威(いやしと悪霊追い出し)を持っていることを否定することはできませんでした。そこで、彼らは、その権威が神ではなく悪霊の力によって悪霊を追い出していると、イエスの働きを悪霊の働きだと決めつけるようになったのです。それは、イエスが実際に悪霊を追い出しているので、それが、悪霊の力によるという以外にイエスの評判を落とす方法がなかったからです。

それに対してイエス様はこのように言われました。

23節~26節「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。」

 イエスは二つのことを通してご自分の力が神の権威によるものであることを説明しました。一つは、サタンがサタンを追い出しているなら、サタンの国が分裂しているということでそのようなことはありえない。もう一つは、

27節「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」

 サタンに支配された人からサタンを追い出すためには、サタン以上の力と権威がなければサタンを追い出すことはできないという意味です。それゆえ、サタンがサタンを追い出すことはできないということ、また、ご自分の力と権威がサタン以上の存在、神以外にサタンを追い出すことはできないという意味です。

またイエスは群衆にこのように言われました。

28節29節「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

 神は唯一の神でありながら、一つの神の中に三つの人格(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神)が調和して存在していると聖書は教えています。これが三位一体の考え方です。また、それぞれの人格にはそれぞれの働きがあります。それは、父なる神は創造主。子なるキリストは救い主。聖霊なる神は宣教の働きに深く関わっています。そこで、聖霊を冒涜する罪とは、宣教の働きを阻む罪のことです。具体的に言えば、イエス・キリストは神の力(権威)によって病をいやし、悪霊を追い出していました。その働きを悪霊の働きと決めつけ、神の働きを否定することは聖霊を冒涜することであり、その人は結果的に神を否定する者、救いの恵みを否定する人ですから永遠の罪に定められ、救われることがないという意味です。

神の家族(マルコの福音書3章31節~35節)

イエスの働きについて、良い噂と悪い噂が広がっていました。悪い噂を流していたのは先ほどの律法学者たちです。イエスの家族たちは、イエスの悪い噂「悪霊かしらによって悪霊を追い出しているという噂」また、「イエスは汚れた霊につかれている」という噂を聞いて心配してイエスを家に連れ帰るためにやって来たのです。しかし、大勢の者がイエスの周りにいたため近くに行くことができません。そこで、人を送ってイエスを呼びました。

32節「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを探して外に来ておられます。」

それに対してイエスはこのように言われました。

33節~35節「すると、イエスは彼らに答えて『わたしの母、わたしの兄弟とは誰でしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人が兄弟、姉妹、母なのです。』」

イエスは血縁による家族も大切ですが、それ以上に神によって集められた信仰による家族こそが本当の霊的な家族であると言われたのです。

パウロは教会を一つの体になぞらえて説明しています。確かに体には異なった器官が集められています。目であり口であり手足などです。しかし、どれが価値があるとか価値がないなど言える関係ではありません。どれもが必要な体の器官です。また、パウロは弱い器官が大切にされるべきだと教えています。教会も人の集まりですから、不完全で罪があります。しかし、互いに助け合って一つの体を形成しています。それこそが教会の姿なのです。

新型コロナウイルス感染のため、礼拝をネットで流す教会が増えました。それ自体は悪いことではないと思います。教会に来られない病人や求道者の人がネットの礼拝を見て教会に来るきっかけになるかもしれません。しかし、心配なのは、ネットで礼拝することによって満足し、教会に来ない人が増えるのではないかとの懸念があります。教会にはいろいろな人が集まっています。教会の人間関係でつまずいた人も多くいます。また、ネットでは自分の都合のいい時間に礼拝することができます。また、好きな説教者を選ぶことができます。それは、自分の都合で礼拝をし、自分の好む説教者を選ぶということです。そこに自己中心の姿を見ます。教会とは何でしょうか。教会とは不完全な者たちが、助け合い仕えあう共同体です。私たちは教会を通して神を愛することと隣人を愛することを学びます。教会に行かずネットで礼拝するほうが楽かもしれません。しかし、それは自己中心の信仰になりやすい危険を含んでします。教会は神様が集めてくださった神の家族です。そこには、気に入らない人、受け入れがたい人がいるかもしれません。しかし、その人も神が必要として、教会の肢体として選ばれた神の家族の一員です。そこに愛し合う理由。赦し合う理由があるのです。