聞く耳のある者は聞きなさい

マルコの福音書4章1節~20節

イエスは群衆にお話になられるときに例えを用いてお話になられました。一つは、身近な出来事をとおして群衆にもわかる例え話。もう一つは、聞いただけでは理解ができませんが、深く考えたり、教えてもらうことによってその意味が理解できる例え話です。

弟子たちは「種蒔きのたとえ」を聞きましたが、その意味を理解できずにイエスにその意味を尋ねました。イエス様は彼らにこのように言われました。

11節「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。」

それゆえ、この「種蒔きのたとえ」はイエス様の周りにおられる弟子たちに教えられた特別なお話であることが分かります。ここでイエス様はイザヤ書6章9節10節のことばを引用されました。

12節「彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。」

ここで「彼ら」と言われているのは、弟子たち以外の「外の人たち」のことです。彼らはイエスの奇跡を見てもイエスを救い主と信じることはできませんでした。また、イエスの話を聞いてもイエスが救い主であることを悟ることはできませんでした。それは、私たちが頭で理解しイエス・キリストが救い主であることを知ることがないためです。私たちがイエス・キリストを救い主と信じ告白するのは、聖霊の働きによるからです。

種蒔きのたとえの意味については、14節から20節までに説明されています。

  • 道端に蒔かれた種(15節)

「みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。」

イエスの話を聞いても、心の準備ができていなければ、聞いた言葉もその場で終わり、心に残ることもなく、忘れ去ってしまう状態のことを指しています。

  • 岩地に蒔かれた種(16節17節)

「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。」

ご利益信仰というものがあります。ご利益信仰は神を信じているようでいて、実は神を利用する信仰です。「お金が儲かる、病が治る」などのご利益を信じて信仰に入りますが、願うような結果を得ることができないと、他の神々に乗り換える信仰です。そのような信仰は、根がないために実を結ぶことはできません。

  • 茨の中に蒔かれた種(18節19節)

「みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。」

みことばを聞くとは、過去の歴史のことばや教訓、道徳として、みことばを聞くという意味ではありません。みことばを聞くというのは、神が自分に対して語ってくださったことばとして聞くという意味です。私たちはこの世の常識や目に見える富に影響されやすいものです。しかし、神のことばを聞くということは、常識と比較してどちらが得かと考えるのではなく、絶対者のことばとして神のことばを受け取っていくということです。世の常識や富に惑わされている間は実を結ぶことはできません。

  • 良い地に蒔かれた種(20節)

「良い地に蒔かれたものは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

ここで大切なことばは「みことばを聞いて受け入れる」ということばです。道端に蒔かれた種のように、聞いてすぐに忘れる者ではなく、受け入れるとは心にとどめるという意味です。また、神のことばをご利益的に(自己中心の心で)聞くなら実を結ぶことはできません。また、茨の中に蒔かれた種のように、この世の常識やこの世の富に心を奪われていたのでは実を結ぶことはできません。神のことばを絶対者のことばとして聞いて受け入れ実行するときに百倍の実を結ぶことができるのです。

アブラハムは75歳の時に神様のことばに従い、親族から離れ神様の示す地に向かったとあります。アブラハムがこの世の常識や自分の富のことを考えたら出て行くことはできなかったでしょう。アブラハムの受けた祝福は、彼が神様のことばを信じて旅立ったことによって受けた惠です。そのことによって彼の人生は百倍の実を結ぶことができたのです。

イエスは9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。その意味は、私たちがどのような心で神のことばを聞くかということです。ただのことばとして聞き流すのか、ご利益を求めて聞くのか、世のことばと比較して聞くのか、それとも、天地を創られた真の神のことばとして聞くのか、それによって私たちの人生は大きく変えられます。

百倍の実を結ぶとは、お金持ちになる事でも何でも願いがかなえられる人生ということではありません。神が共におられることを知り、すべての恐れや不安から解放される人生のことです。死においても私たちは恐れから解放されます。どんなにお金があっても死から逃れることはできません。しかし、イエス・キリストは私たちのために天に住まいを備えてくださると約束してくださいました。イエスを神の子と信じる者には、すべての罪が赦され天において住まいが備えられると神は約束してくださいました。クリスチャンはその神の約束を信じる者です。私たちはこの世においても天においても神の約束がそのようになると信じています。その信仰(信頼)によって、苦しみや艱難、死さえも乗り越えさせるのが神からの平安です。この平安を持つことが、百倍の実を結ぶ人生となるのです。