神の国とからし種

マルコの福音書4章21節~41節

先週は種蒔きのたとえから学びました。道端、岩地、茨の中、良い地に種がまかれましたが良い地に蒔かれた種だけが三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。それぞれの地は私たちの心の状態を表し、「みことばを聞いて受け入れる」とは、神のことばを素直に受け入れ実行することで、それによって豊かな実を結ぶことができるという教えでした。

[明かりと神の国の奥義]

イエスは彼ら(弟子たち)に言われました。

21節22節「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」

ここでイエスが言われた「明かり」「隠れているもの」「秘められたもの」とは、イエスの例え話または神の国についての教え(神の奥義)と考えられます。イエスはあえて群衆に対して、例えを用いてお話になられました。その中には、神の奥義が含まれていて、その意味は群衆には隠されていました。(群衆は理解できませんでした)しかしイエスのそばに仕える弟子たちにはその意味が教えられました。イエス様の教えは、本来「明かり」として人々を照らすために語られましたが、人々の心が暗くその意味を理解することができませんでした。それは升の下や寝台の下に置かれた明かりの状態と同じで、本来の役目を果たすことができませんでした。しかし、イエス様が弟子たちにその意味を伝えることによって、後にその意味「神の国(神の奥義)」が明らかにされました。隠れたもの、秘められたもの(神の奥義)は後に弟子たちによって明らかにされたのです。

それゆえイエスは弟子たちに

23節「聞く耳があるなら聞きなさい」と言われたのです。

[持っている人と持っていない人]

24節25節「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

イエスは9節「聞く耳のある者は聞きなさい。」23節「聞く耳があるなら聞きなさい」と言われました。この言葉から考えて、「自分が量るその秤」とは、みことばを聞く耳のことで、その人の聞く力に応じて神の奥義が与えられ、その理解力が大きいほどたくさんの真理(奥義)が与えられるということです。それゆえ、33節イエスは「彼らの聞く力に応じてみことばをはなされた。」とあるのです。また「持っている人」も、聞く耳を持っている人のことで、その人は、さらに神から理解力が与えられ、神の祝福を自分のものとすることができます。「持っていない人」とは聞く耳のない人のことで、実を結ばない人たちのことです。具体的には律法学者パリサイ人たちのことです。彼らは律法を守ることで救われようと努力していますが、聞く耳がないために「持っているもの」神の民としての特権を、世の裁きの時には取り上げられてしまうという意味です。

[神の国とからし種の例え]

イエスは神の国について二つの例え話をお話になられました。

26節~29節「神の国はこのようなものです、人が地に種をまくと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人はしりません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すると、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

ここでイエスは「神の国」宣教の働きを作物の成長に例えてお話しています。農夫は土を耕し、種を蒔いた後は、天候(神)任せるしかありません。農夫が種を苗に成長させたり、実を結ばせるわけではありません。それは自然の力(神の力)です。農夫の働きは、実が熟した後、刈り取る作業をするだけです。「神の国」の拡大、宣教の働きも私たち人間の努力で教会を増やすわけではありません。使徒の働きを読むなら、教会の成長(拡大)は聖霊の働きで、弟子たちは聖霊に導かれて(助けられて)宣教の働きをしたに過ぎないのです。つまり、私たちの働きとは種をまくことで、成長させてくださるのは神様の働きだということです。

[からし種のたとえ]

30節~32節「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地上のどんな種よりもちいさいのですが、蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

からし種は砂粒ほどの大きさですが、成長すると2メートルから3メートルの木に成長します。神の国(宣教の働き)も初めはイエス・キリスト一人から始められましたが、今では世界中に広げられ、キリスト教はカトリック教会、プロテスタント教会を合わせると、世界の宗教人口の40%を占めると言われています。イエスはからし種の成長の力をキリスト教の宣教の力に例えて説明されたのです。

[自然の力を支配されるイエスの権威]

35節から41節はイエスが湖の上で波と風を鎮めた奇跡の出来事が記されています。イエスと弟子たちが舟で湖の向こう側に渡ろうとしたとき、激しい突風が起こり、波が舟の中に入り込み沈みそうになりました。そのような危機的な状況で、イエスは船尾で眠っておられたとあります。弟子たちはイエスを起こして助けを求めました。するとイエスが起き上がり風を叱りつけ、湖に「黙れ、沈まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかり凪(なぎ)になりました。イエスは彼らに言われました。

40節「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

弟子たちは非常に恐れて互いに言いました。

41節「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

  弟子たちにとってイエスは特別な存在でした。ツアラアト(重い皮膚病)を癒し、中風の人を癒し、悪霊を追い出す権威を持つ特別な存在です。しかし、それでも弟子たちにとってイエスは人が神からの権威が与えられた偉大な人でしかありません。この時点で弟子たちは誰もイエスを神、神の子と信じる者はいなかったのです。そんな彼らにとってこの出来事は衝撃的な出来事でした。自然の力を治めることは人間の力を超えた神の領域にかかわる力、権威です。この出来事は、弟子たちにとって、イエスを神と等しい存在の方であることを認識させた重大な出来事だったのです。

私たちにとって、イエス・キリストは神の子であることは、聖書によって証明された事実です。ですから、イエスを神の子と疑う人はクリスチャンの中にはいません。それでは、私たちは今も、イエスの力と権威が働いていることを信じているでしょうか。イエスの奇跡は過去の出来事、聖書の中の出来事で、現在もイエスの力が働いていることを信じているクリスチャンはどれほどいるでしょうか。アブラハムは75歳で神のことばを信じて、親族から離れ神が示す地へと向かいました。ところが、飢饉のために彼らがエジプトに入るとき、アブラハムは自分の奥さんに妹と言うように命じました。それは、アブラハムがエジプトの国の大きさ(繁栄)を恐れ、神に頼らないで自分の知恵によって自分の命を守ろうとしたからです。アブラハムは神を知っていながら、神の力を信じることができなかったのです。その結果アブラハムの妻サラはエジプトの王宮に召し上げられてしまいました。しかしアブラハムは神様の助けによってサラを取り戻すことができたのです。神の存在を信じることと、神の権威、力を信じることには大きな違いがあります。私たちは神の力、権威をどのように信じているでしょうか。神よりもこの世の方が大きく見えるとき、人は自分の知恵や目に見えるものに頼ろうとします。しかし、私たちが神の力と権威をしっかり見つめているなら、どのような状況にあっても慌てることなく、神の時(解決の時)を待つことができるのです。