会堂司と長血の女性の信仰

マルコの福音書5章21節~43節

今日の聖書個所には二人の人物が登場します。一人は会堂司、もう一人は長血をわずらった女性です。この二人に共通する点は何でしょうか。会堂司は娘が死にかかっておりイエスに助けを求めた。長血をわずらう女性もこの病を癒していただこうとイエス様に近づいた点です。さらに言うなら、会堂司の娘も長血をわずらう女性も、この世の医者では治すことができず、イエスなら癒すことができると信じて必死の思いでイエスに近づいた点です。

「会堂司の信仰(1)」(5章21節~24節)

会堂とはユダヤ教徒が集まって礼拝をおこなう建物のことです。国が滅び、神殿が壊され、捕囚の民となった南ユダの人々は神殿礼拝ができなくなりました。その代わりとして行われるようになったのが会堂礼拝です。会堂司とは建物の管理だけではなく、礼拝の責任者でもあります。その会堂司であるヤイロの娘が死にかかっていました。彼は娘の病のために有名な医者に診てもらったことでしょう。それでも娘の病は良くならず、ついには病が悪化し死にかけていました。そんな状態の時に、彼にイエス・キリストが近くの町にいることが知らされました。この時、イエス・キリストは多くの病人を癒し、奇蹟を行う力があるとの評判でした。ヤイロはイエスのうわさを聞き、この方なら娘を癒す力があると信じイエスの前にひれ伏し「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と頼み込んだのです。会堂司は、複数の長老から選ばれる名誉職です。町ではだれもが知っている有名人です。その会堂司のヤイロがイエス・キリストの前にひれ伏したのです。当時、イエス・キリストは一般の人や貧しい人々の間では人気がありましたが、宗教指導者や裕福な者たちからはユダヤ教の教師とは認められていませんでした。そのようなイエスの前にひれ伏すことは、自分の地位を失うかもしれない危険な行動です。しかし、ヤイロはそんなことは承知でイエスの前にひざまずいたのです。そこにヤイロの娘を助けたいという必死な思いと、イエス・キリストなら娘を助けることができるのではという信仰を見ることができます。イエス・キリストは彼の信仰を見て、ヤイロと共に彼の家に娘を助けるために向かいました。

「十二年の間、長血をわずらった女性」(5章24節~34節)

 イエスがヤイロの家に向かう途中、思わぬ出来事が起こりました。一人の女性がイエス・キリストにさわり、病がいやされたという出来事です。この女性は十二年もの間、長血をわずらう女性でした。「長血」とは、婦人病の一種で、子宮から血が止まらない病気です。旧約聖書のレビ記15章25節~30節では、長血の女性は汚れた者とされ、彼女が触ったもの、彼女が座った場所は汚れたものとなり、これらに触れた者も汚れた者となると記されています。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、何のかいもなく悪くなる一方で、そのために。持っているものすべてを使い果たしたとあります。彼女はこの病のために、人前に出ることもなく、ひっそりと生活していたのではないでしょうか。その彼女のところにイエス・キリストが近くの町に来たことが知らされました。当時イエス・キリストは多くの病を癒す奇蹟の人です。彼の衣服に触れれば自分の病がいやされるかもしれないと考えました。しかし、彼女はイエスのところに行くべきかやめるべきか悩んだことでしょう。なぜなら、人前に出て、自分の病のことを知っている人がいたら、皆が驚いてパニックになる可能性があったからです。しかし、彼女はこの機会を逃したら二度とイエスに会えないかもしれないと思い、決死の覚悟で人ごみに紛れイエスに近づき、後ろからイエスの衣に触れました。

28節「あのかたの衣にでも触れれば、私は救われる。」と思っていたからである。

これが彼女の信仰です。イエスに気付かれなくても、イエスの衣にでも触れば病が癒されると信じたのです。

29節「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。」

とあります。しかし、ここで思わぬ出来事が起こりました。

30節「イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。『だれがわたしの衣にさわったのですか。』」

彼女は驚いたことでしょう。ひそかにイエスから離れようと思ったのに、逃げることができなくなってしまいました。

33節「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。」

とあります。彼女は汚れた身で、黙ってイエスの衣に触ったことをとがめられるのではと恐れながらもイエスの前にひれ伏し、真実を話したのです。

するとイエスは彼女に言われました。

34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

イエスが彼女を人前に引き出したのにはわけがありました。彼女の病が癒されたことを公にするためにあえて、イエスは彼女を人前に引き出したのです。それは彼女の病が癒され、彼女が汚れた女性ではなくなったことを公に宣言し、彼女が社会生活を取り戻す必要があったからです。

「会堂司の信仰(2)」(5章35節~43節)

長血の女性の出来事がなされている間に、ヤイロの娘が死んだことが彼に知らされました。

35節「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」

ヤイロはどれほどこの言葉に落胆したことでしょう。瀕死の重症でも生きていればまだ望みがあります。しかし、死んでしまえば、いくら奇蹟を起こす力があるイエス・キリストでも手の下しようがない。これが彼の心の中にある思いではないでしょうか。しかし、イエスは彼に言われました。

36節「恐れないで、ただ信じていなさい。」

ヤイロの家に着くと「人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのをみて」とあります。ユダヤ教の葬儀では、悲しみを演出するために、大げさに泣き叫ぶ人を雇うことがあるそうです。この場面は、ヤイロの娘がすでに亡くなっていることを表している場面です。その中で、イエス様は彼らに言われました。

39節「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」

人々はイエスをあざ笑ったとあります。彼らにとってヤイロの娘が死んだことは揺るがない現実です。その中で、イエスが「その子は死んだのではありません。眠っているだけです。」という言葉は滑稽に聞こえたのでしょう。

イエスは、皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の共の者たちだけを連れて、彼女のいる部屋に入られ、子どもの手を取って言われました。

41節「タリタ、クム。」訳すと「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

42節「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。」とあります。彼女は十二歳でした。

43節「イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになられた。」

とあります。イエスは、自分の働きの中で、癒しや奇蹟だけが大きく広がっていくのを恐れて、会堂司ヤイロにこのことをだれにも知らせないように言われたのです。

私たちはこの二人の信仰から何を学ぶことができるでしょうか。最悪の状況の中でも神(イエス)を信じ続けることの大切さです。彼女は最悪の状況の中、イエスに希望を置いて近づきました。ヤイロは、娘が亡くなったことを知り失望しましたが、イエスに「恐れないで信じていなさい。」と言われ、信仰をもってイエスに従いました。

イエスが湖の上を歩いて弟子たちの乗った舟に近づいてきたとき、ペテロはイエスに自分も湖の上を歩いてイエスに近づかせて下さいと願いました。イエスがペテロの願いを聞かれると、ペテロは湖の上を歩いてイエスに近づきました。しかし、彼は風と波を見て恐れ沈みかけたとあります。イエスは手を指し伸ばして彼を助けました。ペテロは確かにイエスを見ているとき、湖の上を歩きましたが、波と風を見たとき、イエスの力を疑い沈みかけたのです。私たちもペテロのように状況を見て神(イエス)の力を疑ることがあります。ヤイロは娘が亡くなったと聞いて、失望しました。しかし、イエスは彼に声をかけて励ましました。私たちはこの地上で完全な信仰を持つことはできません。私たちの信仰は常に、信仰と不信仰の間で揺れ動いています。私たちが不信仰に陥った時、信仰へと動かすのが神のことば(聖書)です。私たちが現実に目を留めているときに、私たちはその現実に押しつぶされています。しかし、そのような状況で、神のことばに目を留めるとき、もう一度、心に希望の光が差し込み、神への信頼が回復してくるのです。