人の子イエスと神の子イエス

マルコの福音書6章1節~29節

今日はマルコの福音書6章から三つの出来事について学びます。

・イエスの郷里での働き(1節~6節)

イエスは郷里(ナザレ)で伝道の働きをしました。郷里の人々はイエスの話に驚いて言いました。

2節「この人は、こういうことをどこで得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。」

しかし、彼らは、イエスのことや家族のことをよく知っているがゆえにつまずいたとあります。

3節「この人は大工ではないか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」

イエスは彼らの不信仰のゆえに、ここでは他の村々のように大きな御業をすることなく、数人の病を癒す程度にしか働くことができませんでした。イエスはこの出来事を昔からの格言を通してこのように言われました。

4節「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

イエス・キリストは確かに、私たちと同じ人間としてお生まれになられました。しかし、彼はそれだけではなく、神の子としての性質を持って生まれられたお方です。それを専門のことばでは「二性一人格」と呼びます。本来、イエス・キリストは神の子として父なる神と共に存在しておられました。しかし彼は、私たちの罪の問題を解決するために、人としての性質を持って生まれなければなりませんでした。なぜ、イエスは二つの性質を持って生まれなければならなかったのでしょうか。一つは、私たちの罪の身代わりとして死ぬためには私たちと同じ肉体を持つ必要がありました。もう一つは、イエスが神の性質を持って生まれなければ、(私たちと同じマリヤとヨセフの子として生まれたならば)私たちと同じ罪を持って生まれてしまいます。罪を持った人間は人の罪を赦すことはできません。それゆえ、神はあえて処女のマリヤからイエスを誕生させたのです。処女のマリヤから子どもが生まれることは、私たちの常識や科学では説明できないことです。しかし、イエス・キリストが私たちの救い主として生まれるためには、先ほどの「二性一人格」を持ったお方でなければならなかったのです。イエスの郷里の人々は、人としてのイエス・キリストのことを昔から知っているがゆえに、もう一つの性質、神の子イエスの姿に気付くことができず、イエスにつまずいてしまったのです。イエスのもう一つの性質「神の子」に気が付くためには、人間の知恵を超えた神の力が必要です。イエスと共に生活した弟子たちさえ、イエスが生きている間は、イエスを神の子と気づくことはありませんでした。結局、弟子たちがイエスを神の子と告白できたのは、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が下ってからでした。それゆえ、今も私たちがイエスを神の子と信じることは聖霊の助けなくして、信じることができないのです。

・十二人の弟子たちを伝道の働きに遣わす。(7節~13節)

イエスは十二人を選び二人ずつを宣教のために送り出されました。このとき、イエスは彼らに汚れた霊を制する権威を与え、弟子たちにいくつかの注意点を述べました。

8節9節「杖一本のほか何ももたないように。パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように。履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。」

イエスは、弟子たちが神様だけに頼ることを学ぶために、杖以外は何も持たずに出かけるように教えられました。それは、その背景に、ユダヤ人は旅人をもてなし、宿を提供することが習慣になっていたからであると考えられます。

また、現地での忠告として次のように言われました

10節11節「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

一軒の家にとどまって宣教するように言われたのは、色々な人の家に泊まり歩かないで、信頼できる人の家にとどまって宣教するように戒められた言葉です。また、耳を傾けない場所であったら、そこから出て行くときに足の裏のちりを払い落とすことは、自分とこの町の人との関係を断つ意味があり、その人々に下る神の裁きに私は関係していないことを表した行動です。

12節13節に弟子たちの伝道の結果が記されています。

12節13節「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」

・バプテスマのヨハネの死とヘロデ王(14節~29節)

ここに登場するヘロデ王は、マタイの福音書の2章に登場し、生まれたイエスを殺そうとしたヘロデ王のこどもヘロデ・アンテパスと呼ばれる人です。彼はガリラヤとペレアの国主でした。また、彼は兄弟ピリポの妻を奪い自分の妻としました。バプテスマのヨハネは、このことは旧約聖書の律法(戒め)に反する行為なので、彼はヘロデ王を強く非難しました。そこでヘロデ王は怒って彼を牢に幽閉したのです。ヘロデ王と結婚したヘロディアはこのことでバプテスマのヨハネを殺したいほど憎んでいました。しかしヘロデはヨハネが正しい聖なる人だと知り、彼を恐れながら保護し、喜んで彼の話に耳を傾けていたのです。

しかし、ここにヘロディアにとって好機が訪れました。ヘロデ王の誕生日の祝宴の席で、ヘロディアの娘が人々の前で踊りを披露しました。喜んだヘロデは彼女に「何でも欲しいものを求めなさい。おまえにあげよう。」と約束しました。ヘロディアの娘が母に相談すると彼女は娘に「バプテスマの首を。」と答えたのです。そこで、彼女は人々の前で「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」とヘロデ王に願い出たのです。

26節「王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。」

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストよりも先に、ユダヤ人に悔い改めのバプテスマを広めた偉大な先駆者でした。またイエスに洗礼を授けた人物です。彼は、救い主の前に遣わされる預言者でした。イエスは彼のことを、誰よりも偉大な人物であると高い評価をしています。しかし、彼の死は惨めな最後でした。私たちはこのことをどのように受け止めたらよいのでしょうか。一つ言えることは、彼は神様から与えられた使命を全うしたということです。彼は見事にこの二つの役割(ユダヤ人に悔い改めのバプテスマを施したこと。イエスが救い主であることを宣言した。)を成し遂げたのです。神は喜んで彼を天の御国に迎えられたことでしょう。私たちにとって大切なことは、どのような最後を迎えるかではなく、神より与えられた使命をどのように成し遂げるかです。旧約聖書のモーセもカナンの地を前に最後を迎えました。モーセの役割は、イスラエルの民をカナンの地に導き入れることでした。モーセはカナンの地にイスラエルの民を導きましたが、イスラエルの民にカナンの地を征服させるのはヨシュアの役割でした。モーセは自分に与えられた役割を成し遂げ、自分の従者であるヨシュアにその役割を引き継がせ、最後を迎えたのです。モーセはカナンの地に入ることはできませんでしたが、山の頂からカナンの地を見て満足したものと思います。彼は、すべての重荷をおろして、神によって天の御国に迎えられたのです。私たちのゴールはこの地上で有名になることではなく、天の御国に入ることです。神は私たち一人一人に使命を与え、それを完成させてくださるお方です。そして、その最後に、私たちを天の御国に迎えてくださるお方なのです。