目には目を歯には歯

 

目には目、歯には歯という言葉を聞いたことがあると思います。実はこの言葉は旧約聖書に登場する言葉です。多くの人々はこの言葉の意味をやられたらやり返しても良いという、神が復讐を許された言葉だと間違って考えている人々が多くいます。実は、この言葉の意味は、目を傷つけられたら、相手の目だけは同じだけ傷つけても良い、歯を傷つけられたら、相手の歯だけは傷つけても良いという意味です。もとの意味は、やられたらやられただけはやり返しても良い、それ以上相手を傷つけたり、相手の命までは奪ってはいけないという、人間の憎しみを抑えるために、旧約聖書で神が定めた戒めなのです。

しかし、新約聖書において、イエス・キリストはこのように教えられました。「悪い者に手向かってはいけません。あなたがたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい。」右の頬を打つ者に自ら左の頬を向けなさいと言われたのです。また、ほかの個所で、弟子のペテロがイエス様に「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と尋ねたとき、イエス様は彼に言われました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」七度を七十倍にするとは、回数の問題ではなく、完全に(何度でも)赦すように教えられたのです。

私たちは、右の頬を打たれて、左の頬を向けたり、自分に罪を犯した者を何度でも赦すことができない者です。憎しみは憎しみしか生み出しません。やられたら何倍にもしてやり返すのが人間です。しかし、それをやり続けたら憎しみが増大するだけで、何の解決にもなりません。また、人を赦すことよりも愛することはもっと難しいことです。やられたことを忘れることはできるかもしれませんが、加害者を被害者が愛することは絶対にできないことです。しかし、イエス・キリストは赦すだけではなく、隣人を愛しなさいと言われました。イエス・キリスト自身、自分を十字架に付ける者のために「彼らをお赦しください」と神に祈りました。赦すことなく相手を愛することはできません。この赦しと愛は神より与えられるもので、自然に生まれる感情ではありません。神は私たちの罪を赦し、愛してくださいました。神に赦され愛されて初めて、人を赦し愛することができます。自分中心、自分の国中心の考えは、争いを生むだけです。赦しと愛によって、はじめて差別のない本当の平和な社会が誕生するのです。