まだ悟らないのですか

マタイの福音書8章1節~26節

コリント人への手紙第一1章22節に「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。」とあります。ユダヤ人ではなくても、人間は神を信じたいと思う時、奇蹟やしるしを求めるのではないでしょうか。私自身も求道者の時、夢や幻でイエス・キリストを見たなら信じるという思いがありました。しかし、それは聖書が教える神を信じるとは違いがあります。イエスの復活を信じることができないトマスのためにイエスは再度、弟子たちの前に姿を表されました。トマスは復活されたイエスの姿を見てイエスの復活を信じたのですが、イエスは彼に言われました。ヨハネの福音書20章29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。」イエスの姿を見ないでイエスの復活を信じるとは、聖書全体のことばを信じるということです。聖書全体がイエス・キリストを神の子と証言しています。そのことばを信じる時、イエスの処女降誕、復活、数々の奇蹟を事実として信じることができるのです。

1、四千人の空腹を満たされるイエス・キリスト(1節~10節)

イエスの話を聞こうと多くの群衆がイエスと行動を共にしていました。彼らは三日間イエスと共にいて彼の話に耳を傾けていたのです。群衆はすでに食べ物を持っていませんでした。イエスは彼らのことを心配して、弟子たちに食べ物について相談しました。彼らはそれを聞いて4節「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。」と答えました。イエスは弟子たちにパンがどれくらいあるか聞きました。弟子たちはパンが七つありますと答えました。イエスは男性だけで五千人の人々の空腹を満たされた時のように、群衆を座らせ、七つのパンをとり感謝の祈りをささげてからそれを裂き弟子たちに配るように渡されました。また、小魚が少しあったのでそれも配られました。8節「群衆は食べて満腹した。そして余りのパン切れを取り集めると、七つのかごになった。」とあります。弟子たちはイエスに食べ物のことで相談された時、「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに食べさせることができるでしょう。」と答えています。彼らは、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々の空腹を満たされた奇蹟を思い出さなかったのでしょうか。出エジプト記で、イスラエルの民はモーセが行った10の奇蹟によってエジプトから脱出し、紅海が二つに割れて、陸地を通って紅海を渡りました。しかし、彼らは荒野に入って、水がないとつぶやいたとあります。彼らはなぜ、あれだけの奇蹟を体験しながら神に信頼できなかったのでしょうか。奇蹟を体験することは素晴らしいことですが、奇蹟から学ぶことは何と難しいことでしょう。

2、しるしを求めるパリサイ人たち(11節~21節)

 11節「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」とあります。彼らが求めた「天からのしるし」とは、メシヤ(救い主)であることのしるし(証明)のことです。12節「イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。『この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしもあたえられません。』」イエスは「今の時代には、どんなしるしもあたえられません。」と言われました。しかし、イエスが行っている働き、福音を伝え病人を癒すことはメシヤとしてのしるしでした。しかし、群衆やパリサイ人たちが求めたメシヤのしるしは、ローマの軍隊を追い出し自分の国を取り戻すメシヤでした。それゆえ、彼らは、イエスの奇跡をメシヤとしてのしるしとは気が付かず自分たちが望むしるしを求めていたました。それゆえ、イエスは「どんなしるしもあたえられない」といわれたのです。イエスは15節で弟子たちに言われました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」パン種は良い意味と悪い意味でたとえに使われています。パン種はパンを膨らせるために用いるもので、小さなパン種が全体を大きく膨らす例えとして用いられます。良い意味では神の国の成長に例えられ、悪い意味では、悪意が人の心の中で大きくなることの例えにも使われています。イエスが言われた「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」は彼らのイエスに対する悪意という意味で使われています。しかし、イエスのことばを理解できない弟子たちは、自分たちがパンを持ってこなかったことについて議論していたのです。イエスは彼らに言われました。17節18節「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見えないのですか。耳があっても聞かないのですか。」弟子たちもイエスに対して、ローマの兵隊を追い出し国を取り戻す革命家としてのメシヤ(救い主)を求めていました。弟子たちは、イエスが高い地位に着いた時、自分たちもまた高い地位に着けると期待していたのです。そういう意味で、彼らは目があっても見ない、耳があっても聞かない者だったのです。

3、目の見えない人のいやし(22節~26節)

イエスの前に目の見えない人が、連れてこられ彼にさわってくださるように懇願しました。イエスは彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てられました。また、それを繰り返されました。すると彼の目がすっかり治り、すべてのものがはっきり見えるようになりました。26節「そこでイエスは、彼を家に帰らせ、『村には入って行かないように』と言われた。」とあります。先週学びました、耳が聞こえず口がきけない人のいやしの話と似ています。ここでもイエスは「彼を村の外に連れ出された」「唾を付けました」「村に入らないように言われました」彼を村の外に連れ出されたのは、このいやしの働きが誇張して広がらないため、また、彼に村に戻らないように言われたのは、彼が新しい生活を始めるためだと思われます。

パリサイ人たちや群衆、弟子たちがイエスに求めた奇蹟は、自分たちが願う奇蹟(ユダヤの国の独立)でした。それゆえ、イエス・キリストが行っていたメシヤとしてのしるしに彼らは気づきもせず、気づこうともしなかったのです。私たちも同じように、イエスに病の癒しや、自分の問題の解決だけを求めるなら、ご利益信仰になってしまいます。神が私たちのためになしてくださった最大の奇蹟は、神がひとり子であるイエス・キリストを人としてこの地上に送ってくださったこと。また、イエスは神の子であるのに、私たちの罪の身代わりとして十字架でご自分のいのちを犠牲にしてくださったことです。どの神々が、罪人のために自分の大切なひとり子を犠牲にするでしょうか。どの神々が罪びとのために自分の命を犠牲にされたでしょうか。神が罪びとを救うために、ご自身のひとり子を犠牲にされた。イエス・キリストはご自分の命を犠牲にして、私たちを罪の中から贖いだしてくださいました。これ以上の奇蹟はありません。私たちがそのことに気付くとき、私たちは初めて、真の神を神として礼拝することができるのです。