天の御国を目指して

へブル人への手紙11章8節~16節

今日は、召天者記念礼拝です。先に天の御国に召された家族、友人のことを覚えて礼拝をしましょう。

へブル人への手紙11章は信仰とは何かについて書かれています。1節「さて、信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。「望んでいることを保証し」と「見えないものを確信させる」この言葉に共通することは、未だ手に入れてはいないけれども、すでに手に入れたと信じるということです。では、なぜ、「未だに手に入れていないけれども、すでに手に入れたこと」と信じることができるのでしょうか。それは、約束してくださった神が真実であるからです。約束手形というものがあります。振出人が受取人に対して一定の期日に一定の金額を支払うことを約束する有価証券のことです。受取人はまだ現金を手にしていませんが、振出人との約束を信じて、現金は手にしてはいませんが、必ず受け取ることができると信じて約束手形を受け取ります。振出人と受取人の間にあるのは、信頼と信用です。神と私たちとの関係も同じです。私たちが神のことばを信じるのは、神が真実であることを私たちが信じているからです。

1、神の約束を信じたアブラハム

旧約聖書の創世記12章で神はアブラハムに言われました。1節~3節「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」アブラハムは神様の約束を信じて、父の家を出ました。その時。アブラハムは75歳でした。アブラハムは神の導きに従ってカナンの地に入りました。神はアブラハムに言われました。7節「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」この時、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。また、二人にはまだ子が生まれていませんでした。しかし、アブラハムは神のことばを信じて、そこに祭壇を築いたとあります。それからしばらく時間が過ぎましたが、アブラハムとサラにはこどもが生まれませんでした。アブラハムは次第に神のことばを疑るようになりました。そんなアブラハムに神はこのように言われました。創世記15章5節「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」アブラハムは主を信じたとあります。そして、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に男の子が生まれました。アブラハムはその子をイサクと名付けたとあります。イサクにエサウとヤコブが生まれ、ヤコブに12部族が生まれ、イスラエルの民がエジプトで増え広がりました。エジプトの王はイスラエルの民を恐れ迫害を加えました。イスラエルの民が神に助けを求めると、モーセが誕生し、モーセによってイスラエルの民男性だけで60万人がエジプトから神の約束の地カナンへと旅立ちました。彼らは40年の間荒野をさ迷い歩き、ヨシュアによってカナンの地に入りその地を占領することができたのです。神がアブラハムに約束されてからおよそ600年後の出来事です。

2、神の約束を信じたマリア

ルカの福音書1章30節~32節で御使いガブリエルがマリアに言いました。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」マリアは御使いに言いました。34節「どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りませんのに。」この時点でマリアは神のことば(男の子が生まれる)を信じてはいません。御使いが彼女に言いました。35節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」

マリアは御使いに答えました。38節「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」マリアはどのようにして処女の自分が男の子を生むことができるのか、その方法は分かりませんでしたが、神のことばはその通りになると信じたのです。この時、マリアはヨセフと婚約していました。自分が子を身ごもったことがヨセフに知れたならば、自分は殺されるか、婚約が破棄されるかもしれない。そんな危険があることを承知でマリアは神様の約束を信じたのです。それから後、マリアは男の子を生み、イエスと名付けられました。

3、私たちは何を信じているのか

人間にとって最大の敵は死であると聖書にあります。私たちは誰も死から逃れることはできません。死が恐ろしいのは、死後、神の裁きが下されることにあります。人はこの地上で犯したすべての罪を死後、償わなければなりません。また、聖書はすべての人は罪を犯したと記しています。それゆえ、人は自分の犯した罪のゆえに、天の御国に入る特権を失ってしまいました。そのように罪を犯した私たちはどのようにして、この特権を回復し、天の御国に入ることができるのでしょうか。ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。イエス・キリストは、神の子であられるのに、私たちの罪の問題を解決するために人として生まれてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。そして、死より三日目に復活され、天の父のもとに昇って行かれたのです。神の子のいのちは人間のいのちと比較にならないぐらい価値のあるいのちです。イエス・キリストはその価値あるいのちを十字架の上で私たちの罪の代価として支払われたのです。そして、私たちがイエス・キリストを神の子と信じ、私たちの罪が、イエス・キリストの十字架の死によって支払われたことを信じるなら、私たちは罪は赦された者となり、死後の神の裁きにあうことなく、天の御国に迎えられるのです。これは神の約束のことばです。私たちは神が真実で約束を必ず守られるお方であることを信じています。それゆえ、私たちはすでに、永遠の命を持ち、死後、天国に迎えられると信じているのです。