自分の十字架を負って

マルコの福音書8章27節~38節

「いわしの頭も信心から」という言葉があります。その意味は、いわしの頭のような(価値のない物)でも、熱心に信仰すれば尊く見えてくるという、盲目的な信仰を揶揄(やゆ)したことばです。そこには、熱心に信仰することが大切で、信仰する対象は何でもよいという考えがあります。日本中には、亀や猫やキツネなどを神として拝んでいる神社がたくさんあります。確かにその神社にはその生き物を神として崇める由来となる出来事があるでしょうが、本当に亀やキツネを神と崇めるに値するのでしょうか。私たちはどうしてイエス・キリストを神と崇めているのでしょうか。私たちが信じる神はどのような神でしょうか。私たちは毎週礼拝で使徒信条を告白しています。この使徒信条こそ私たちが信じる神がどのようなお方であるかを言葉で表したものです。それゆえ、私たちが毎週礼拝で使徒信条を告白することによって私たちが信じている神がどのような神であるのかを確認しているのです。

1、「わたしをだれと言いますか。」27節~30節

27節でイエスは弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか。」とお尋ねになったとあります。イエスは弟子たちに自分について人々が何と言っているかを尋ねられましたが、イエスの真の目的は、弟子たちが自分のことを何と信じているかを確かめるためにこのような質問を弟子たちにされたのです。弟子たちは28節「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」と答えました。さらにイエス様は弟子たちに29節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

と尋ねられました。弟子のペテロがイエスに答えました。「あなたはキリスト(メシア)です。」30節「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。」

とあります。イエスは何故、弟子たちにご自分のことをキリスト(メシア)と言わないように戒められたのでしょうか。その答えは次のイエスのことばにあります。

2、「キリスト(メシア)の姿」31節~33節

31節でイエスは弟子たちにこのように言われました。「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと弟子たちに教え始められた。」それを聞いてペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めたとあります。マタイの福音書16章22節では「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とペテロは言っています。それに対してイエスはペテロを叱って言いました。33節「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロや弟子たちは「キリスト(メシア)」という言葉に対して、ローマの軍隊を追い出しユダヤの国を独立させるダビデ王のようなキリストを考えていました。しかし、神が遣わされたキリストは「苦難のしもべ」としてのキリストでした。ペテロはイエスを愛しイエスがダビデ王のようになることを期待していたのでイエスが律法学者たちに捨てられ殺されると聞いて、そんなことがあなたに起こるはずがないとイエス様の発言をいさめたのです。それに対してイエスは、神の計画を邪魔する考えとして、サタンという厳しい言葉でペテロを叱り、彼を退けられたのです。

3、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」34節~38節

ペテロの間違った考えを退けられた後、イエスは群衆に言われました。34節35節「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」弟子たちはイエスに従うことによって将来、高い地位に着けると期待していました。しかし、イエスはそれを否定し、自分に従うことは十字架を負うことだと言われました。十字架とは苦しみと蔑みの象徴です。イエスがローマの軍隊を追い出し、ユダヤの国の王に就任したならば、弟子たちもイエスの側近として高い地位に着くことができたでしょう。しかし、神がイエスに計画されたことは、人々の罪を背負って十字架の上で苦しみを受け死ぬことでした。当然、イエスの弟子としてイエスに従うならば、弟子たちも十字架という苦しみと蔑みを自ら背負わなければならないと言ことです。ここで面白い話をしましょう。私の友人が神学校で学んでいるときに見た夢の話です。ある時、彼は夢の中で十字架を背負って歩いている自分の姿を見ました。その時、自分だけではなく自分の周りにも十字架を背負って歩いている人たちがいました。ふと、見ると自分の前に、自分の背負っている十字架よりも大きく立派な十字架を背負って歩いている人がいました。彼は神様に、私にも彼が背負っているような大きくて立派な十字架をくださいとお願いしました。すると神様は彼にこのように言われました。「あなたは、今、背負っている十字架で十分です。自分の十字架を背負って私に従って来なさい。」彼はそこで目が覚めたそうです。

イエスは「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われました。(1)「自分を捨てる」とは、自分の願いや考えを捨てるということです。弟子たちで言えば、将来、高い地位に着きたいという願いを捨てるということです。(2)自分の十字架を負う」とは、神は私たちにふさわしい十字架を備えておられます。その十字架を背負って生きるということです。ここで言われている「十字架」とは、神様から与えられた使命です。神は私たちにいのちを与えたと共に使命を与えられました。私のことで言えば牧師となることです。私は以前、印刷関係の仕事をしていました。クリスチャンになってからも教会の役員として神に仕えたいと思っていました。牧師になるとは考えたこともありませんでした。しかし、神はみことばをもって私に迫りました。ヨハネの福音書15章16節のみことばです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って無を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」このみことばが私の心に迫り、何度も祈り、神の招きのことばと信じて献身しました。私は自分の好きな仕事を捨てて神が備えられた自分の十字架を背負ったのです。マタイの福音書19章16節で、お金持ちの青年がイエスのもとに来て、永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいかという質問をしました。イエスは彼に戒めを守りなさいと言われました。それを聞いて彼はイエスにどの戒めですかと尋ねました。イエスは十戒の後半の戒めについて言いました。すると彼はそのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうかと尋ねました。するとイエスは彼に言われました。マタイの福音書19章21節「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝物を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」22節「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」とあります。皆がみな財産を捨ててイエスに従うことを、もとめられるわけではありません。この青年にとってイエスに従うために財産が障害となっていたということです。しかし、彼は財産を捨てることができずにイエスの前から姿を消したのです。イエスは36節でこのように言われました。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょう。」いのちは財産よりも大切な宝です。しかし、この世のいのちにも限界があります。イエスは私たちに永遠のいのちをあたえると約束してくださいました。十字架を背負って歩くことは苦しみと蔑みが伴います。しかし、イエス・キリストが私たちに与えてくださる、永遠のいのちはこの世の財産やこの世のいのちにまさる宝物です。イエス・キリストはこの素晴らしい宝を私たちに与えるために、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされたのです。