羊飼いとクリスマスの恵み

「羊飼いとクリスマスの恵み」ルカの福音書2章8節~20節

今年も皆さんと共に、小手指教会でクリスマスの礼拝を守ることができて感謝です。アドベントの第1週は、老夫婦ザカリヤとエリサベツに訪れたクリスマスの恵みについてお話しました。第2週は、イエス様の父であるヨセフに訪れたクリスマスの恵みについてお話しました。第3週はイエス様の母マリヤに訪れたクリスマスの恵みについてお話しました。第4週先週は、東方の博士たちに訪れたクリスマスの恵みについてお話しました。今日は、羊飼いたちに訪れたクリスマスの恵みについてお話します。

ユダヤの国では、羊を飼う仕事は一般的な仕事でした。しかし、羊飼いにも二種類ありました。たくさんの羊を持つお金持ちの羊飼いと、その羊の世話をする雇われた羊飼いです。特に、雇われた羊飼いは貧しい者が多く、また、礼拝や神様の戒めを守れないために、人々から罪人のようにあつかわれ、蔑まれていました。先ほど読んでいただいた聖書に登場した羊飼いたちは、貧しい身分の羊飼いたちです。ルカの福音書2章8節「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」とあります。彼らは羊を守るために寝ずに羊を見守っていたのです。そこに突然、主の栄光(まばゆい光に照らされ)が現れ、羊飼いたちは驚きに満たされました。御使いは彼らに言いました。10節11節「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がおうまれになりました。この方こそ主キリストです。」当時、ユダヤの国はローマという大きな国に支配されていました。ユダヤ人は旧約聖書の預言のことばを信じ、神様から救い主が遣わされ、自分たちがまた、以前のように自分たちの国を取り戻すと信じていました。羊飼いたちは御使いからその知らせを受けたのです。どんなに彼らは驚き喜んだことでしょう。そこで、彼らは急いで、ダビデの町(ベツレヘム)へ行き、幼子を探し回りました。そして、マリヤとヨセフ、飼葉桶に寝ておらえれるイエス様を見つけ出し、御使いの知らせ通りであったことを喜び、この知らせを人々に伝えながら帰って行ったのです。

今日のお話に登場した羊飼いたちと先週お話した東方の博士たちには共通点があります。それは、羊飼いも東方の博士たちも、ユダヤ人たちは、彼らのことを蔑み、神様から遠い存在、神様の祝福から遠い存在だと思われていたことです。しかし、その神様から遠い存在と思われていた人たちに、神様の恵みは表されたのです。彼らはどんなに喜んだことでしょう。マタイの福音書20章に、天の御国(天国)についてのイエス様のたとえ話があります。マタイの福音書20章1節~16節まで。このたとえ話の中心は、朝早く雇われた者と五時ごろ雇われた者に与えられた賃金が同じであったというところです。初めに、後から雇われた者たちに1デナリ(一日の労働賃金)が支払われました。1時間しか働かなかった者はどんなに驚き喜んだことでしょう。朝早く雇われた者はそれを見て、喜び、自分たちはもっと多く賃金がもらえると期待しました。しかし、彼らに支払われたのも1デナリでした。朝早く雇われた者は、朝から夜まで一生懸命働いた者です。五時に雇われた者は1時間しか働いていません。それなのに同じ賃金が支払われたのです。当然、朝早くから夜遅くまで働いた者はぶどう園の主人に文句を言いました。12節「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」主人は彼らに言いました。13節~15節「友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がよいので、あなた方の目にはねたましく思われるのですか。」

このたとえ話は天国についてのたとえ話です。この地上のことではありません。ここで、イエス様が群衆に言わんとしたことは、天国は努力して入るところではなく、神様の恵みとして与えられるところだということです。ユダヤ教の指導者、律法学者たちは、いかに努力したら天国に入ることができるかを研究し努力していました。しかし、神様は救い主が生まれたというこの素晴らしい知らせを、祭司や律法学者たちではなく、羊飼いたちに知らせたのです。羊飼いたちは正に、1時間しか働かなかった者にあたります。律法学者たちは朝早くから働いた者に例えられているのです。

私たちはどうでしょうか。私の家系はキリスト教とは全く関係のない家系です。25歳になるまで、聖書を読んだことも教会に行ったこともありませんでした。また、自分で救いを求めて教会を探したわけでもありません。代々木公園を歩いている時に、宣教師に声をかけられて、無理矢理に教会に連れていかれた者です。(自分の意思で教会に行った者ではありません。)そういう意味では、私も1時間しか働かなかったのに、一日の賃金をもらったものに等しい者です。天国は努力した結果、神様から頂く報酬ではありません。何の努力もしないで、神様が一方的にくださる神様の恵みです。努力して報酬を得た者に共通することは、自分が頑張ったという満足と達成感です。しかし、努力もせずに一方的に恵みを頂いた者に現れるのは、恵みを与えてくださった方への感謝の気持ちです。決して得ることができないような恵みであればあるほど、感謝の気持ちは大きくなります。罪を持って天国には入れないと聖書にあります。律法学者やパリサイ人たちは、いかに努力して罪を犯さない者になるか研究しました。しかし、神様は私たちの罪の身代わりとして、神の子イエス様を人として生まれさせ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上でイエス様の命を取られたのです。それによって、イエスを神の子と信じる者の罪を赦すと約束してくださいました。神様が私たちに与えてくださった救いはただで与えられる神様からのプレゼントです。決して人が努力して、また、立派な人、罪の無い完全な人に与えられるものではありません。神様はすべての人にこの素晴らしい救いのプレゼントを与えてくださいました。クリスマス、それは、1時間しか働かなかったのに一日の賃金をもらった者がよろこんだように、私たちにただで与えられた救いの喜びのできごとなのです。