羊飼いと羊の関係

「羊飼いと羊の関係」詩篇23篇1節~6節

先週は、イエス様を通して私たち人間は神様との親しい関係、父と子の関係を回復することができるというお話をしました。今日は、旧約の時代からイスラエルの民に親しまれてきた、羊飼いと羊の関係を通して、神様と人間の関係を学びます。

先ほどお読みしました、詩篇23篇はダビデの作と言われています。詩篇にはたくさんダビデの賛歌という詩がありますが、全てがダビデの作ではありません。ダビデのために書いた詩、ダビデを思って書いた詩もすべて、ダビデの賛歌として詩篇の中に加えられています。しかし、詩篇の23篇だけは疑いもなくダビデの作として受け入れられています。その理由として、ダビデの家系は、羊飼いの家柄で、ダビデ自身も子どもの頃から、羊飼いの仕事を手伝っていたからです。それゆえ、ダビデは、羊飼いと羊の関係をよく理解していました。また、羊飼いをしていたからこそ、羊飼いの仕事についても良く熟知していました。それゆえ、詩篇23篇のような羊飼いと羊の親しい関係を、自分と神様との関係に当てはめて詩にまとめることができたのです。

詩篇23篇1節と2節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」とあります。羊は元来、視力が弱く、遠くを見通すのが苦手な生き物です。それゆえ、群れを作り、先導者に導かれて移動する動物だそうです。そこに、羊飼いと羊の大切な関係があります。羊飼いの大切な役割は、羊を緑の牧場に導き、また、水のほとりに伴うことです。3節を読むと「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」とあります。先週もお話しましたが、私たち人間は明日のこともわからず、五年十年先のこともわからない愚かな者です。それは、神様の目には、目の見えない者に等しく、それは、ダビデが詩篇で詩っているように、視力の弱い羊と同じではないでしょうか。私たち人間は、羊が羊飼いによって生かされているように、神様によって養われなければ、みじめな存在なのです。私たちは神様と出会って初めて心に平安を得、私たちの人生は、迷子の羊のようではなく、神様に導かれて本当の幸いな人生を歩くことができるのです。

4節「たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とあります。イスラエルの地は、坂が多く、郊外は岩地が多くあります。羊飼いが羊を緑の牧場に導くために、崖を上り、岩の上を歩くこともありました。ダビデは、羊飼いからすぐにイスラエルの王に就任したわけではありません。ダビデがサムエルに王として油注がれた時、イスラエルの国にはサウルという王様が存在していました。サウル王はダビデの人気が上がると彼を恐れ、ダビデを必要に殺そうと追い回しました。そのため、ダビデは犯罪者として逃亡生活を長い間、続けなければなりませんでした。その生活はどんなに苦しく辛いものだったでしょう。それでも、ダビデは神様への信頼を失いませんでした。ダビデは二度もサウル王を殺すチャンスを得ましたが、二度とも、神に油注がれた者に手をかけてはいけないと、部下たちを抑えて、サウル王を殺すことをしませんでした。普通、考えれば、自分を殺そうと狙っている相手を自分が殺せば、自分のいのちは助かり、危険な生活から解放されます。しかし、それでも、ダビデは、自分の手でサウル王を殺すことなく、神様の手に委ねたのです。旧約聖書に、復讐してはならない、復讐は神のなさることであるとあります。ダビデは、必ず神がサウルの罪を罰して、自分を助けてくださると信じていたからこそ、この苦しみの生活をも神様に委ねることができたのです。それで、ダビデは、神がともにおられるので「死の影の谷」「わざわい」をも恐れないと口にすることができたのです。また、羊飼いの持つむちと杖は、羊を外敵から守るための武器です。決して、羊をむちで傷めたり、杖で羊を叩くための道具ではないのです。

新約聖書の中で、イエス様は、ご自分を良い羊飼いに例えています。また、新約聖書はイエス様を神の子羊に例えています。

(1) 良い羊飼い。
ヨハネの福音書10章11節「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とあります。羊飼いでも雇われた羊飼いは、自身が危険に接すると羊を置いて逃げてしまいます。自分のいのちが大切だからです。しかし、自分の羊を飼う者は、羊を助けるために命がけで羊を守ります。そこに、羊飼いと羊との信頼関係、愛の関係が存在するからです。イエス様は私たちを罪の刑罰から救うために、自ら十字架の上で命を犠牲にされました。イエス様にとって私たち人間は、ご自分のいのちを犠牲にされるほど、大切な存在なのです。

(2) 神の子羊。
ヨハネの福音書1章29節「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」とあります。この言葉は、バプテスマのヨハネがイエス様を見て言われた言葉です。バプテスマのヨハネはイエス様を見て、救い主(メシヤ)であると預言されたのです。イエス様が十字架に付けられて殺されたのは過越しの祭りの時でした。過越しの祭りは、出エジプト記12章に登場する出来事を記念として守るように神様から命じられたお祭りです。当時、エジプトの王パロはイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許可しませんでした。そこで、モーセはエジプトに対して10の災害で苦しめました。その10番目の災いが、エジプトにいる初子を殺すという災いです。しかし、イスラエルの民には、家の門とかもいに、羊を殺して、その血を塗るように命じられました。神様はその血を見てその家を通り過ぎる(災いは過ぎ去る)と約束してくださったのです。その晩、神様はエジプト中の初子の命を取られましたが、イスラエルの民にはその災いは下りませんでした。それは、神様が羊の血を見てその家を通り過ぎられたからです。そのことは、二千年後のイエス様の十字架の死による救いを表すお祭りだったのです。二千年前にイスラエルの民を災いから救ったのは羊の血でした。そして、今、私たちを罪の刑罰から救うのは十字架で流されたイエス様の血なのです。私たちは、イエス様が十字架に上で、私たちの罪の身代わりで死んでくださったことを信じる信仰によって救われるのです。それは、出エジプトの時、神様が災いからイスラエルの民を助けると言われた約束と、同じことを神様はイエス様を通して私たちにも約束してくださったからです。私たちは自分の知恵と努力で、本当に幸いな人生を歩むことができるでしょうか。自分の努力だけでは決して解決できないのが人生です。思わぬ事故、病気、災害、そのような時、私たちは、誰に頼り、何に助けを求めたら良いのでしょうか。イエス様は私たちの人生の同伴者です。神様は私たちの良い牧者として、幸いな人生、また、天の御国へと導いてくださるお方です。