マタイの福音書1章20節~23節 クリスマス礼拝
クリスマスおめでとうございます。今年も皆様と共にイエス・キリストの誕生をお祝いできますことを感謝します。
世界中でイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスが行われます。日本においてもクリスマスをお祝いしますが、多くの人々が知識としては、クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う日だということは知っていても、その本当の意味を知らないでクリスマスを過ごしています。私も昔はそうでした。こどもの頃のクリスマスは、ケーキを食べてクリスマスプレゼントをもらう特別な日でした。また、大人になってからは、お酒を飲んで皆で騒ぐクリスマスでした。それは、イエス・キリストのいないクリスマスで、形だけの中身のない名前だけのクリスマスでした。しかし、洗礼を受けて最初に祝ったクリスマスは、今でも忘れることが出来ない特別なクリスマスでした。それは、自分の罪が赦され「神がともにおられる」ことが強く感じられた日でした。
イエスの弟子マタイは、ユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるためにマタイの福音書を書きました。それゆえ、彼は旧約聖書のことばを何か所か引用し、ユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えました。それは、ユダヤ人が旧約聖書を神のことばと信じているからです。主の使いはヨセフの夢に現れ、マリアが身ごもったことを彼女が姦淫の罪を犯したのではなく、聖霊によって身ごもったと伝えました。20節「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」また、それだけではなく21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と言われました。「イエス」とは「救い」という意味です。その「救い」とは、ローマ政府からユダヤ人を救うのではなく、主の使いは罪からの救いであると告げています。また、マタイは処女が身ごもるという不思議な出来事を、旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言の成就としてユダヤ人に訴えています。23節24節「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」ユダヤ人にとって神は神聖なるお方で、神が人となることは考えられないことでした。しかし、預言者イザヤはイエスが生まれる約700年も前に、神が人として生まれることを預言したのです。また、マタイは、マリアが処女で身ごもったことが、姦淫の罪を犯したのではなく、主の使いのことばのように「聖霊によって身ごもった」ことであり、それは、預言者イザヤの預言の成就だとユダヤ人に訴えたのです。
日本人は何でも神として崇める国民なので、人が神になることに違和感はありません。しかし、ユダヤ人にとって神は創造主であり、神が人となることは絶対に考えられないことです。イエス・キリストが裁判で罪に定められたのも、イエスが自分のことを神の子と認めたからです。それを聞いた大祭司は、神を冒涜した罪で、イエスを死刑に定めたのです。クリスマスとは、その神の子イエスが神の姿を捨てて人として生まれたことを祝うお祭りです。
「インマヌエル、神が私たちとともにおられる」とは、神が神としての栄光の姿を捨てて、私たちと同じ姿で、しかも、赤子として生まれてくださったということです。しかも、生まれた場所は家畜小屋でした。そこまでへりくだって人となってくださった。また、その目的は私たちの罪の身代わりとして死ぬためでした。そんなことが人間の常識、知恵で理解できるでしょうか。インマヌエル、神が私たちとともにおられるとは、人間の常識を超えた神の奇跡です。それゆえに、私たちは、神の子イエス・キリストの誕生を祝うのです。
それだけではなく、イエスは天に昇られる前に、ご自分の代わりに聖霊を遣わすと弟子たちに約束されました。その聖霊(助け主)はいつまでもあなたがたとともにおられると言われました。また、イエスが天に昇られるとき、イエスは弟子たちに言われました。マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
キリスト教の祝福は天国に招かれるだけではありません。イエス・キリストが聖霊なる神として私たちとともにおられることです。旧約聖書のブラハムやヤコブと神は共にいましたが、同じ神が私たちとともにいてくださるという約束です。私たちはどれ大きな祝福を頂いた者でしょう。それも、努力して、勉強してということではありません。この祝福はイエスを神の子と信じる者すべてに与えられる神の恵みです。今日、あなたにも神はこの祝福を与えたいと願っています。神の前に謙遜になって神の祝福を頂きましょう。