人間の罪と神の赦し

創世記3章1節~7節

先週は創世記1章から神の創造について学びました。神は天地すべての物を六日間で完成されました。そして、神はそれを見て「非常に良かった」と満足されました。しかし、私たちが今、生きている世界は決して、神が見て満足されるような世界ではありません。何故、このような悪が満ちた世界になってしまったのでしょうか。それは、人間の罪の故です。人間の罪と神の赦しについて学びます。

1、人間の罪

創世記2章で神はアダムをエデンの園に住まわせました。そこで、神はアダムに一つの命令を与えられました。創世記2章16節17節「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」そして、神はアダムを眠らせ、彼のあばら骨の一つから女(エバ)を造り、二人はエデンの園で幸せに暮らしました。しかし、創世記3章で蛇(サタン)が登場し、エバを誘惑しました。創世記3章1節「蛇は女に言った。『園の木のどれからでも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。』」神はアダムに「善悪の知識の木からは、食べてはならない」と言われたのに、蛇は「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と神のことばを変えてエバに話しかけました。ここに蛇(サタン)の狡猾さがあります。それを聞いたエバは、蛇のことばを訂正していますが、正確ではありませんでした。2節3節女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなた方は、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました」彼女の答えは正確ではありませんでした。蛇は彼女の神のことばに対する不正確さに付け込むように言いました。4節5節「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」神はアダムに「必ず死ぬ」と言われたのに、蛇はここで神のことばを否定して「あなたがたは決して死にません」と言いました。また、蛇は「神のように善悪を知る者となる」と誘惑しました。「神のようになる」とは、なんと魅力的なことばでしょう。6節「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫もたべた。」二人はどうなったでしょうか。7節「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」とあります。二人の目は開かれましたが、神のようになることはありませんでした。二人は自分たちが裸であることが分かり、いちじくの葉で自分たちの腰の覆いを作り、神から身を隠したのです。ここでカギとなる言葉は「善悪を知る」ということです。新約聖書のギリシャ語で罪を表す言葉に「ハマルティヤ」という言葉が使われています。その意味は「的外れ」という意味があります。聖書で教える「罪」とは、「神のことばから」外れたことを罪と言います。本来、「善悪」とは、神が定めたものです。それを、人間が「善悪」を決めるようになると、そこに罪が発生し自分に都合の良いことを「善」とし、都合の悪いことを「悪」と定めるようになります。それは、自己中心となり、自分さえよければという世界を生み出します。それが聖書で教える「罪」です。創世記3章の11節から13節は、罪を犯した人間の姿を現わしています。アダムは自分の罪を認めず、女(エバ)に責任転嫁しました。エバはヘビに責任を押し付けました。旧約聖書の士師記の最後は、イスラエルの国が一番乱れた時代です。その最後のことばが、士師記21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とあります。「善悪」の基準があいまいとなり、自分さえ良ければという時代になっていたことが分かります。神は「善悪の知識の木から食べると必ず死ぬ」と言われましたが、二人はすぐには死にませんでした。神が創造した世界には罪も死もありませんでした。しかし、二人が罪を犯すことによって二人は死に支配される者になったのです。また、罪を犯した二人は、神より遠く退けられてしまいました。それは霊的な死を意味していました。

2、神による罪の赦し

神は全知全能の神ですから二人がどこに隠れているかを知っていながら、二人に呼びかけました。9節「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』」それは、二人が自分の罪を認めて神の前に出ることを期待しての呼びかけでした。しかし、二人は神の前に出ましたが、自分の罪を認めることはありませんでした。神が罪を犯した二人をエデンの園から追い出す時、二人のあまりにみじめな姿を見て、皮の衣を与えられたとあります。21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」また、15節のことばは「原始福音」と呼ばれ、イエス・キリストの十字架による贖いを預言されたことばと言われています。15節「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はお前の頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」「おまえの子孫」はサタンを表し、「女の子孫」はイエス・キリストを表しています。また、「おまえは彼のかかとを打つ」はイエスを十字架に付けて殺すことを表し、「彼はお前の頭を打ち」は、イエスが死より復活することによって、サタンの計画を滅ぼすことを表しています。

イエスは処女マリアから生まれました。それはイエスの無罪性を表した出来事です。もし、イエスがマリアとヨセフによって生まれた者なら、彼も私たちと同じ「原罪」を持って生まれたことになります。それでは、聖書がイエスは一度も罪を犯さなかったと言っても証明することはできません。しかし、イエス・キリストが聖霊によってマリアから生まれた者であるなら、イエスには原罪はなく、罪を犯さなかった者として十字架に付けられて殺されたことになります。罪ある者は人の罪の身代わりとなることはできません。それゆえ、イエスが神の子であり、罪の無い者であるから、十字架の死が私たちの身代わりの死となり、私たちの罪の赦しとなったのです。私たち人間の知恵では神のなさることを理解することはできません。神は私たちとは違い、大きな愛を持っておられました。先程のアダムとエバを憐れんだように、私たちを憐れみ、イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされたのです。イエス以外でどの神々が、人間の罪の身代わりとなったでしょうか。イエス・キリストだけが歴史的事実として十字架で殺され、死より三日目に復活された方です。聖書は、すべての人は罪を犯し神からの栄誉を受けることが出来ないと教えています。人はどんなに努力しても罪から逃れることは出来ません。それゆえ、イエス・キリストが私たちの罪を担って下さったのです。神の愛が分からないと、イエスの十字架の死の意味を理解することは出来ません。神は聖書のことばを通して、ご自身の大きな愛について教えています。私たちはこのイエス・キリストの十字架の死と復活ゆえにイエス・キリストを神の子と信じているのです。