「どうしても必要なものはただ一つだけです。」

「どうしても必要なものはただ一つだけです。」ルカの福音書10章38節~42節

今日は、マルタとマリヤの二人の姉妹の話から学びます。この個所は有名な個所で、特に教会の奉仕について学ぶときに用いられる場面です。私はこの個所を読むたびにいつも違和感を覚えていました。それは、その前が、イエス様とパリサイ人たちの会話があり、そして、イエス様の有名な「良きサマリヤ人」のたとえが話され、そして、次にマルタとマリヤの家にイエス様が訪問する話に繋がります。何か取って付けたような。突然にマルタとマリヤの話になるという感じです。今日の説教を作るときに気が付いたことですが、このマルタとマリヤの家の出来事を描いた聖書はルカの福音書だけです。マタイ、マルコ、ヨハネの福音書にはこのお話は登場しません。四福音書の中で、四つまたは、三つの福音書に同じ場面が登場するということは、その場面が非常に重要な場面であることを意味しています。また、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書それぞれの中で、一つの福音書だけにしか登場しない場面も重要な場面です。それは、その著者が特別に選んで挿入した場面であるからです。先ほどお話した「良きサマリヤ人」のたとえ話もルカの福音書だけに紹介されたたとえ話です。この良きサマリヤ人のたとえ話をイエス様がされた切っ掛けは、25節で、一人の律法の専門家が永遠の命を受けるためにはどうしたらよいかという、イエス様への質問から始まりました。イエス様は彼に「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と逆に彼に質問を返しています。彼は二つのことを答えました。(1)27節「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(2)あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」イエス様は彼の答えが正しいことを認め、それを実行すればいのちを得ますと言われました。それに対して、この律法の専門家は、「では、私の隣人とは、だれのことですか。」とイエス様に質問しました。それに対して、イエス様は良きサマリヤ人のたとえを話されたのです。

良きサマリヤ人のたとえでは、強盗に襲われた人を見て、祭司とレビ人は彼を助けることなく反対側を通り過ぎて行きました。また、サマリヤ人は彼をかわいそうに思い、彼を介抱し、宿屋に連れて行き彼のために費用まで支払いました。イエス様は律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と質問しました。彼は、「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。イエス様は彼に「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたのです。このお話に登場する祭司、レビ人は神様に仕える人々です。彼らが、強盗に襲われた者に近づかなかったのは、彼らが、神に仕える者であり、神に仕える者は自分を清く保たなければならない、汚れた者に近づいてはいけないと教えられていたからです。(野で行き倒れた人は汚れた者とされていました)。実際、イエス様の時代、律法学者パリサイ人たちは、貧しい人々を罪人、汚れた者と呼び、彼らに近づこうともしませんでした。それどころか、イエス様が、貧しい人々と共に食事をしていると、律法学者パリサイ人たちは、罪人たちと食事をしたとイエス様を非難したのです。しかし、神様の御心は、イエス様のように貧しい人々に憐れみをかけることでした。彼らは、頭ではわかっていても、実際の生活では、自分の信仰を清く守るために、貧しい人々には一切、近づこうとしなかったのです。そんなパリサイ人たちの姿を見て、イエス様は、神様の御心はそうではないとをこのたとえ話を通して教えられたのです。

ここまでの所では、律法の専門家が最初に答えた「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」という言葉については説明がなされていません。ルカによる福音書を書いたのは異邦人のルカで、彼は、ローマの高官のためにこの福音書を書きました。複数の聖書解釈者たちが、ルカは、この神である主を愛するということを異邦人のテオピロに教えるために、マルタとマリヤのお話をこの個所に挿入したと説明しています。わかりやすく言えば、この25節からのイエス様と律法の専門家とのお話は、42節のマルタとマリヤのお話まで一つのお話だということです。

では、マルタとマリヤのお話がどのように、神である主を愛すことに繋がるのでしょうか。イエス様たちが、ベタニヤの村に来られた時、マルタという女性が喜んで、イエス様たちを家に迎えました。マルタはイエス様のために急いで食事の準備をしていたものと思われます。しかし、妹のマリヤは、マルタの手伝いをすることもなく、男たちに混じって、イエス様のお話を一生懸命聞いていました。マルタは、自分がイエス様のために一生懸命食事の準備をしているのに、妹のマリヤが自分を手伝おうとしないことに腹を立てて、イエス様に言いました。40節「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」当時、女性がお客様のおもてなしをすることはあたりまえのことでした。また、女性が男性に混じってお話を聴くということは、まれなことで、はしたないとさえ思われていました。それなのに、妹のマリヤは姉の手伝いもせずに、イエス様の話に聞き入っていたのです。マルタの怒りは当時としてはあたりまえのことです。しかし、イエス様はマルタに言いました。41節42節「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」イエス様がこの地上で宣教された期間は三年半の間だけです。直接、イエス様のお話を聞く機会はそんなに多くはなかったと思います。そんな大切な時間を女性だからと言って聞き逃すことはもったいないことです。マリヤは自分にとって貴重な時間として、周りから何と言われようとも、イエス様の近くでお話を聞きたかったのです。イエス様にとっても一人でも多くの人々に話を聞いてほしかった時間ではないでしょうか。そういう意味で、マリヤにとっての貴重な時間を取り上げてはいけないと、イエス様はマルタに言われたのです。先ほどの律法の専門家が言われた「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」ということばは、イエス様のことばに耳を傾けることではないでしょうか。私たちは、マルタのように、神様のために何かをしようと一生懸命になります。他の宗教でも、神様にお供えをしたり、祭りをしたり、神様に対して何かをすることを求められます。しかし、キリスト教はそうではありません。「はじめにわたしのことばを聞きなさい。」それがキリスト教です。神のことばに従わなかった最初のイスラエルの王サウルに、預言者サムエルが言ったことば、第一サムエル記15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」とあります。神様が私たちに求めておられるのは、たくさんの奉仕やささげものではありません。神様が私たちに求めておられるのは、神の声に耳を傾けることです。私たちは、マリヤのように求めて、神様の声に耳を傾けているでしょうか。