ペテロのために祈るイエス

「ペテロのために祈るイエス」ルカの福音書22章31節~34節

以前、一目で見る四福音書という本を紹介しました。この本は四つの福音書を並行して読むことによって、その場面を立体的に見ることができ、その内容を深めるのに役立ちます。前回は、イエス様の所に質問に来たお金持ちの青年の話から学びました。今日の個所は、イエス様が弟子たちに自分につまずき、自分を捨てて逃げていくことを預言し、また、ペテロはそれを聞いてイエス様に反論し、自分は決しそんなことはしませんと大見得を切る場面です。この場面は、四つの福音書に描かれた有名な個所です。しかし、それぞれ、少しづつ違いがあります。特にルカの福音書では、先ほどお読みしたように、イエス様は31節で、「シモン、シモン」とペテロを以前の名前で二度呼びかけています。また、サタンがペテロをふるいにかけることを願って聞き届けられたこと、そして、イエス様がペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったこと。また、ペテロが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいというイエス様のことばが書かれています。この個所はルカの福音書だけに書かれた場面です。福音書は、イエス様の生涯が書かれた書物ですが、それぞれ、著者が違うために少しづつ違いがあります。また、一人ひとり違った目的で書かれているため、ある場面は省略され、ある場面は強調して書かれています。マタイの福音書は、マタイがユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるために書かれました。ルカはイエス様と直接出会った人ではありません。ルカはパウロによって伝道されクリスチャンになった異邦人です。ルカはテオピロという高い地位(ローマの高官)の人にイエス・キリストを紹介(伝道)するために、ルカによる福音書と使徒の働きを書きました。彼の職業は医者であると紹介されていますが、彼は歴史家でもあり、実際にエルサレムに行き、イエスの母マリヤや弟子たちに取材し、その資料をまとめて書いたのがルカの福音書と使徒の働きです。それゆえ、今日のこの場面は、直接ペテロから聞き取ったことを書いたのではないかと思います。

イエス様は31節で「シモン、シモン」と呼びかけています。この名はペテロの本来の名です。イエス様はこの漁師のシモンと出会った時、彼に、ペテロ(岩)という意味の名をあたえられたのです。岩とはペテロの頑固な性格を表していたのかもしれません。しかし、後にその性格は変えられ、岩のような不動の信仰を持つ者にされたのです。イエス様はこの岩(ペテロ)の上に教会を建てると言われました。しかし、この時の、ペテロの信仰は岩どころか、ペラペラの紙のように揺れ動く弱い者でした。ペテロは先ほどのイエス様のことばを聞いてどのように答えたでしょうか。33節「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」このことばは、嘘ではなく、ペテロにとって真実のことばです。ペテロは心から自分はそうできると信じていたのです。しかし、彼の信仰はまだ出来上がっていませんでした。そうしたいという意思はあっても土台となる信仰がまだできあがっていなかったのです。イエス様はペテロに言いました。34節「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」マタイの福音書、マルコの福音書では、「たといあなたと一緒に死ななければならなくても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」とペテロは答えています。この言葉も、ペテロは嘘偽りの無き気持ちでイエス様に答えています。では、実際はどうだったでしょうか。イエス様が捕らえられると、弟子たちはイエス様を一人置いて、逃げて行ってしまいました。ペテロは、イエス様のことが心配で、その裁判の様子をうかがうために、隠れてその場に近づきました。しかし、ペテロはイエス様が言われたように鶏が鳴く前に、自分はイエスを知らないと三度も言ってしまったのです。ペテロは泣いて外に出たと書かれています。

ペテロはこの時、強く自分を責めたのではないかと思います。イエス様のことばに、絶対にそんなことはありませんと答えた自分を思い出し、情けない思いでいっぱいではなかったでしょうか。このままであったなら、再びイエス様の弟子として働くことはできなかったでしょう。イエス様は復活された後、ペテロの前に現れ、「私を愛しますか。」とペテロに三度、問いかけました。もし、イエス様がペテロの前に現れ、わたしの羊を飼いなさいと言ってくださらなければ、ペテロは二度とイエス様の弟子として立ち上がることはできなかったでしょう。

もう一度、初めの話に戻ります。ルカはこの場面をペテロから聞いて書いたのではという話をしました。その確率は高いと思います。この時、ペテロはすでに12使徒の頭として尊敬されていました。その自分がどうして、あの失敗から立ち直ることができたのか、それは、先ほどの32節のイエス様の祈りがあったからだということを、ルカに伝えたかった、また、ルカもそのことを、テオピロだけではなく、私たちにも伝えたかったのではないでしょうか。私たちは自分の信仰を自分自身で支えていると誤解してしまいます。実は、私たちの信仰は、先ほどのペテロのように、イエス様の祈りによって支えられているのです。先週、神の摂理というお話をしました。神様はすべてを支配しておられ、私たちの人生も支配しておられる。しかし、その支配は運命のように変えられないものではなく、私たちの祈りや悔い改めによって変えられるというお話をしました。しかし、変わらないものもあります。それは、神様の選びです。神様は私たちを選んでくださいました。それは、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちをお見捨てになられないということです。それは、ペテロが証明しています。神様はいつも、私たちに助けの手を伸べています。ペテロはその神様の助の手にすがりました。しかし、イスカリオテ・ユダはどうだったでしょうか。実は、イスカリオテ・ユダにも神様の助けの手は伸べられていたのです。最後の晩餐の時、イエス様は自分を裏切るものが出ることを預言されました。これは、イスカリオテ・ユダに対するイエス様の憐れみの手です。しかし、イスカリオテ・ユダは、そのイエス様の助の手を無視してサタンの計画に従ってしまったのです。神様は私たちを選んでくださっただけではなく、どんな時も助けてくださると約束してくださいました。それは、永遠に変わらない約束です。それは、旧約聖書のアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデを見てもわかります。皆、失敗していますが、神様の憐れみによって助けられました。カインとサウル王はどうでしょうか。神様は二人に悔い改めのチャンスを与えられましたが、二人は、神の手にすがりませんでした。イスカリオテ・ユダは自らの罪の重荷に耐えきれず、自ら命を絶ってしまいました。

私たちは偶然に生まれた者ではありません。私たちが生まれたのは神様の愛とご計画の故です。また、私たちがクリスチャンとして新しく生まれたのも神様の恵みです。また、神様は永遠の愛で私たちを愛してくださると約束してくださいました。それは、私たちがりっぱで、神様にとって役に立つからではありません。私たちは、ペテロのように弱い者です。しかし、神様はそんな弱い者のために祈ってくださいました。今、私たちがクリスチャンとして歩めるのは、このイエス様の祈りのおかげなのです。