ナジル人サムソンの最後

士師記16章28節~31節

私たちは偶然に生まれた者ではありません。神の愛と計画によって命が与えられました。しかし、その神の計画とは、私たちがロボットのように神に定められた通りに、生きるという事ではありません。私たちには自由意思が与えられていて、私たちの人生は、神の御手の中にありながら、自分の選択によって選ばれた人生です。それゆえ、その選択には自己責任が伴います。神のことばに従うならば祝福を受け、従わなければ禍を受けるというものです。その代表がアダムとエバの選択です。アダムとエバが神の約束を守っているとき、彼らはエデンの園で幸せに暮らしていました。しかし、神の戒めを破った時、彼らは自分たちの罪のゆえにエデンの園から追い出され、神の祝福を失ってしまいました。私たちの救いも同じことです。私たちは神の前に罪を犯し、最後の審判の時、神に裁かれる者になりました。しかし、神は私たちをその裁きから救うために、神の子イエス・キリストを人として誕生させ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を取られました。神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちのために救いの道を備えてくださいました。そして、それを信じる者の罪は赦すと約束してくださいました。しかし、信じない者は自分の罪のゆえに神の裁きを受けることになります。信じるか信じないかはその人の自由です。しかし、信じなければ神の裁きは残ります。神がせっかく救いの道を備えられたのに、それを信じないという事は、神の選びの恵みはあるものの、自らの選択によって神の裁きを受けるという事になるのです。

1、ナジル人として生まれたサムソン

サムソンは士師記に登場する有名な士師(神に選ばれたリーダー)です。その特徴は人並外れた力の強さにありました。しかし、忘れてはならないことは、サムソンはナジル人として神に特別に選ばれた人であったことです。ナジル人とは神に特別な祈りをささげた人。また、生まれる前から神にささげられた人のことをいいます。サムソンは後者で、生まれる前から神に選ばれ、ナジル人として育てるように神は両親に命じています。士師記13章2節「さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。」3節「主の使いがその女に現れて、彼女に言った。『見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。』」そして、注意することとして。4節5節「今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。そのこの頭にかみそりを当ててならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」と言われました。「汚れた物」とは、神はモーセを通して、イスラエルの民に、聖い生き物と汚れた生き物の区別を教え、汚れた動物を食べてはならないと戒めました。また、死体を汚れた物として死体に触れないように戒めています。それだけではなく、外国人を異邦人と呼び汚れた者と交わることを禁じました。しかし、成長したソロモンはナジル人の誓願を守りませんでした。

2、ペリシテ人と戦うサムソン

士師記14章で、サムソンはペリシテ人の女性が気に入り、彼女と結婚したいと両親に相談しました。両親は反対しますが、サムソンは両親の意見を聞くことなく、ペリシテ人の女性と婚姻の約束をしてしまいました。しかし、この結婚は悲劇を招き、ペリシテ人と対立するきっかけを作ってしまいました。また、サムソンは士師記16章でガザの遊女と交わりを持ちました。また、サムソンはデリラという女性を愛しました。しかし、彼女はペリシテ人の領主たちから銀千百枚を受け取る約束をし、サムソンの力の秘密を聞き出すように命じられました。デリラはサムソンを誘惑して彼の力の秘密を聞き出そうとしますが、サムソンは真実を話しませんでした。しかし、最後にサムソンは彼女の誘惑に負け、力の秘密を打ち明けてしまいました。士師記16章17節「ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。『私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の神の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。』」デリラはサムソンから力の秘密を聞きだすと、サムソンを眠らせ、彼の髪の毛七房を剃り落としました。そしてサムソンにペリシテ人が襲って来ましたと呼びかけました。サムソンは主の力が自分から離れたことを知らず、ペリシテ人に立ち向かいますが、力を失ったサムソンはペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ牢獄に入れられてしまいました。サムソンを捕らえたペリシテ人は大いに喜び、盛大な宴会を催しました。そして、サムソンを見世物にしようと彼を牢獄から呼び出しました。サムソンは牢獄にいる間に髪が伸び、再び力を取り戻していました。彼は神に祈りました。28節「サムソンは主を呼び求めて言った。『神よ、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。』」サムソンはダゴンの神殿を支えている二本の柱に寄りかかり、柱を倒し、神殿を崩壊させました。その時、サムソンと多くのペリシテ人が死のました。確かに、この時、サムソンは生きている時よりも多くのペリシテ人を殺すことが出来ました。しかし、それは神に喜ばれことだったのでしょうか。サムソンの出来事は、長い話なので今回は短縮してお話ししました。ぜひ、聖書の箇所を読むか、「サムソンとデリラ」という映画もありますのでご覧ください。

サムソンは神に選ばれたナジル人でした。そして、神から特別な力が与えられました。しかし、サムソンはナジル人の約束を守りませんでした。それゆえ、最後は悲惨な最期を迎えることになりました。それは、彼が選んだことであり、当然の結果でした。しかし、最後、彼は神に祈ることを忘れませんでした。願わくは、もっと早く神に祈ることをしていたら、彼の人生は変わっていたかもしれません。今でも、神から特別な才能を与えられている人々がいます。しかし、その才能を自分のために使っている人々を多く見ます。その最後は、悲惨な最期を迎えた人も多くいます。才能、賜物は神の栄光のために私たちに与えられているものです。それを知るならば私たちの人生は自己中心ではなく、神中心の人生になるはずです。また、私たちは神より幸いを得るために命が与えられています。それを知って神のことばに従う人の人生は幸いですが、知らない人は自己中心となり世の欲望に支配され、神の裁きを受けることになります。そうならないために、イエス・キリストは神の姿を捨てて人として誕生し、十字架の上で命を犠牲にされ、死より三日目に復活して天に上って行かれたのです。それが、聖書が私たちに伝える福音であり、私たちに伝えられた神の祝福のことばです。その神のことばに耳を傾け、それを行う者は幸いな人生を歩む人です。